尻内町矢沢の歴史〔5〕

《馬を飼っていた》これは近くに住む馬渡○蔵さんの話です。馬渡家の本家(又兵衛)では戦前に馬を飼っていたそうです。馬小屋が並んで牧場みたいな感じで、馬が自由に走り回っていたそうです。○蔵さんのお父さんやおじいさんは馬の世話係として住み込みのように当家で暮らし、幼い○蔵さんもこの家で育ったようなものだと話していました。住み込みとして暮らす人が20人くらいはいたそうです。

 

《太平洋戦争》八戸には陸軍が飛行場を設置、海軍が沿岸に配備され、アメリカ軍が本土上陸地点の一つとして軍事的に重要視していました。昭和20年(1945)年7月14日、15日、八戸はグラマン戦闘機による最初の空襲を受けました。目標となったのは工場地帯、港湾、鉄道、飛行場でした。7月19日には大空襲予告のビラがアメリカ軍によってまかれ、それを機に八戸の疎開は強化されました。長崎に原爆が投下された8月9日、10日にも空襲を受けましたが、八戸大空襲予告日を2日後に控えた8月15日、終戦を迎えることとなりました。

 

 軍需工場に指定されていた日東化学工業、日本砂鉄やセメント工場などがあり、中学生はそれらの工場で働いていました。「本土決戦」に備え、永久築城の緊急工事が開始されると、女学生や国民学校の児童までも動員されました。長引く戦争により食料や衣料は配給制度となり、市民生活は貧困を極めました。米が無くなると麦や稗、それも無くなると大豆、じゃがいも、かぼちゃなどを代用し飢えをしのぎました。

 

 第1回目の空襲は昭和20(1945)年7月14日、米艦載機6Fグラマン戦闘機の至近弾によるもので、朝5時から7時、9時、11時と2時間ずつの波状攻撃で、高舘飛行場、日東化学、尻内駅が被害を受けました。この攻撃は翌日も続き、死者行方不明者452名、重軽傷者は多数にのぼりました。2回目は8月9日午前6時、グラマン戦闘機50機が八戸をおそいました。港に仮泊していた海防艦「稲木」はこれに応戦しましたが、ロケット弾を集中的にあびせられ撃沈、艦長以下29名が戦死しました。翌10日も空襲があり、工場、民家等が爆撃され、多数の死者を出しました。(八戸市教育委員会編『平和を求めて』参考)

 

 8月17日が「八戸大空襲」の予告日とされていましたが、その2日前に終戦を迎えたため、市街地の壊滅的な被害はまぬがれました。参考:総務省ホームページ

 

《ロケット飛行機》これはお隣に住む松倉○○さんの話です。松倉さんは太平洋戦争当時はまだ少年でした。アメリカの飛行機が尻内駅(現在の八戸駅)をめがけて爆撃してきました。当時は駅や橋などがねらわれたそうです。空襲警報が鳴る中、急いで防空壕に入り、すき間から見ると、アメリカの飛行機はかなり低い位置で飛んでいて、尻内駅のタンクをめがけてミサイルを撃っていました。昼間で明るいにもかかわらず、ミサイルが赤い光の線となって連続的に発射されているのが見えました。それまで飛行機というものはプロペラがついたものしか見たことがありませんでしたが、この時、はじめてプロペラのない飛行機を見たそうです。松倉さんはそれをロケット飛行機と呼んだそうです。

 

《火災・ボヤ騒ぎ》これは親戚の馬渡○彦さんの話です。昭和20年代、昔はよく火災・ボヤ騒ぎがありました。消防のサイレンの音が鳴ると、とにかくみんなで「火事だ!」と言って走ってかけつけたものです。本当に今の時代とは比べられないほど多かったです。たいていは大火事にはならず、ボヤ騒ぎで終わりましたが、たばこの火の不始末やこたつなどが原因でした。※自分が子ども時代は昭和50年代でしたが、そういえばその時代でも同様の火災・ボヤ騒ぎが多かったですね。

 

《りんごの木、りんごの倉》これは親戚の馬渡○彦さんの話です。国鉄の蒸気機関車が走っていた時代、馬淵川には蒸気機関車に必要な水を揚げる場所がありました。その付近から川に沿ってりんごの木が植えられていたそうです。そして、矢沢観音様の近くにはりんごを貯蔵する倉があったそうです。○彦さんは馬渡ハルから冷たいりんごをもらったことを覚えているそうです。

 

 

《道路の高さ》これはお隣に住む親戚の馬渡○三さんのお話です。昭和40年代、矢沢橋につながる道路はまだ砂利道であり、道路の高さは低いところにあったそうです。今ある塀は、もとは板塀であり、その下に石が少し見えますが、その石に大人の人が腰かけて休んでいたそうです。それくらい道路が低いところにあり、石の高さがあったそうです。

 

 

《昭和30年頃の駅前》昭和30年(1955年)4月1日のデーリー東北新聞社に載った写真です。尻内駅(現在の八戸駅)の前は道路がせまく、店が密集している感じです。自転車を利用している人が多いです。

 

 

《尻内大火》昭和34年、尻内駅(現在の八戸駅)の前で大火がありました。駅前通りは店が連なっていましたが、裏手は田んぼが広がっていました。木津酒店の方のお話では、小さい頃に大火に遭い、裏手の田んぼに逃げたとのことです。その後、区画整理によって道路幅は拡張されました。

 昭和38年には昭和天皇が駅前通りを巡行されました。(写真下)

 

 

《昭和40年代の暮らし》これは親戚の馬渡○久さんの話です。ちょうど○久さんが子どもの頃、子ども会が立ち上がりました。高橋さんや貝吹さんが立ち上げたそうです。その頃は田んぼが多かったので、田んぼで凧あげをしたものだとのことです。

 後にピザの配達をする店ができましたが、一番町までは配達エリアで、尻内町は配達エリアではなかったそうです。例えば大嶋さん宅は一番町で、自分の家は尻内町中崎で、50mも離れていないのにピザは配達してもらえなかったそうです。

 沢向六蔵さん宅は、昔は豆腐屋でした。今はおからが健康に良いということで見直しされていますが、昔はおからは捨てられていたものです。子どもの頃は手が冷たい時に捨てられてあったおからを握りしめて歩いたものです。

 馬渡○○郎さんが経営していた馬渡商店は、朝の仕事帰りにお酒を一杯飲むことができる店でした。朝の仕事を終えて一杯飲む大人は多かったそうです。朝の7時前から飲む人は多かったそうです。後に、運吉さんの小屋が集まる場所に変わっていきました。

 昭和40年代も蒸気機関車は走っていました。後にディーゼル車が誕生しました。八戸駅に隣接するユートリーの辺りは、昔は国鉄の官舎があったところでした。昭和46年に、尻内駅は八戸駅に改称されました。明治24年に尻内駅が誕生して以降、80年以上の歴史があるため、それ以降も尻内駅という人が多いです。

 

《 八戸駅前商店街》これは八戸駅前で理容店を営む山本さんの話です。駅東口の噴水のある場所には、かつては共同の水飲み場があったそうです。湧き水とかではなく、水道の水で、当時駅前は旅館が多かったので、洗い物も多く、人々が共同で利用していたそうです。

 九州地方の洋品店の会社が営業で服や布を売るために、八戸駅前を拠点とし、岩手県の久慈まで鉄道を利用していました。そういうわけで旅館もにぎわっていました。また、国鉄の官舎もあったため、国鉄職員やその家族が買い物をするため、今となっては信じられないくらい八戸駅前はにぎわっていたそうです。

 

《昭和50年代、60年代の暮らし》これも親戚の馬渡○久さんの話です。新幹線のレール下を通るトンネルがありますが、工事をするときに、けっこうな数の人骨が出てきました。昔のお墓があったのかどうか。新聞の記事には載らないけれど、事故が多いそうです。