尻内町矢沢の歴史〔3〕

《江戸時代》 

 大佛村、矢沢村、根岸村(浅水川下流の左岸)、根市村(浅水川下流の右岸)、花崎村(浅水川下流の右岸)は、はじめ盛岡藩領でしたが、寛文5年(1665年)からは八戸藩領となりました。下は『元禄10年高帳』(1697年)と『正保郷村帳』(1702年)の比較です。大佛村や花崎村の収穫は5年間で下がったのでしょうか。

 

『元禄10年高帳』 (1697年)より 

大佛村(大佛・七崎)田590石、畑121石  

矢沢村 記述なし

花崎村(浅水川下流/右岸)田251石、畑6石  

根市村(浅水川下流/右岸)田64石、畑5石  

根岸村(浅水川下流/左岸)田457石、畑110石

 

『正保郷村帳』 (1702年)より 

大佛村(大佛・七崎)田231石、畑22石  

矢沢村 田222石、畑18石  

花崎村(浅水川下流/右岸)田116石、畑6石  

根市村(浅水川下流/右岸)田72石、畑2石  

根岸村(浅水川下流/左岸)正法寺に姥水門、

  張田に新水門とあり。

 

 1石は玄米150kgで、米俵2つ半くらいです。ごはんが1食150gくらいだとすると、単純に考えた場合、1石はお茶碗で1000杯くらいです。朝昼夕に食べたとして、1人の人が333日分食べる量といった感じでしょうか。

 

『八戸藩日記』より

 大佛、花崎、根市、矢沢は寛文5年(1665年)あたりよりだんだん荒れてきたため、250石の荒地開墾(あれち・かいこん)がゆるされました。

 

 寛文12年(1672年)大佛の制札場に「キリシタン禁制」「捨て馬禁止」の札が掲げられました。大佛村の用水は矢崎堤もありますが、七崎丹羽横手水門を取水とします。

 

 宝永4年(1707年)池田弥五右衛門氏が矢沢村と根市村を結ぶ矢沢根市橋を完成させました。

 

 宝暦5年(1755年)の文書では、矢沢村清川観音堂という文字が見えます。

 

 明和7年(1770年)矢沢村にて火事が発生、5軒焼失しました。

 

 花崎村には毘沙門堂があったとされています。所在地は不明です。櫛引城の北方鎮護のためとされています。

 

 安永7年(1778年)根岸村の正法寺に鍬鋤類鉄荷改所がおかれました。

 

 天保8年(1837年)大佛村は凶作でした。弘化2年(1845年)根岸村の正法寺で火事が発生、11軒が焼失しました。

 

 江戸時代に飢饉(ききん)があり、多くの命が失われました。 元禄(1695年~1696年)、寛延(1749年~1750年)、宝暦(1756年~1757年)、天明(1783年~1784年)、天保(1832年~1838年)の時代に飢饉がありました。南部地方では新井田村、類家村、是川村、尻内正法寺などに供養塔が作られました。 供養塔は3回忌、7回忌、13回忌などの節目に作られたようです。

 

参考:角川地名辞典

 

矢沢町内にある石碑

 

 尻内町矢沢にある庚申の石。元治元年(1864年)の年号が見えます。また、名主櫛引佐〇(藤?)の名が刻まれています。



 年号はわかりませんが、矢沢村が「八沢村」と表記されています。施主の真ん中に「馬渡又兵衛」(うちのご先祖様)の名前が刻まれています。その両側にも名前がありますが、昔の文字なので解読できないです。滝尻先生の「碑は語る」の本を読むと分かるかもしれません。年号もわかりません。矢沢が八沢と表記されているので、他の石碑よりも、なかり古いものかと思われます。もともとは、この2倍くらいの高さがあり折れてしまったものではないかと思われます。

 

 

 十和田山青龍大権現の石。弘化2年(1846年)の文字が見えます。側面に施主世話人矢沢惣助とあります。その他、7人の名前が見えますが、はっきりとは解読できません。大仏町内にも十和田山青龍大権現の石碑がありますが、そちらは安政7年(1860年)の建立です。

 

大仏町内の石碑

 

 大仏町内の入口に立つ庚申塔で、石碑建立は文政13年/天保元年(1830年)と思われます。

 

 

 大仏町内の墓地近くにある石碑。十和田山青龍大権現の石碑は安政7年(1860年)の建立。施主に大塚屋左吉、矢沢亦兵エ(馬渡又兵衛)、張田市助、正法寺六之助、大仏助十郎、大仏惣助、大仏孫八、大仏助作、世話人として久治、三九郎、久五郎、惣之助、助三郎、惣七、孫市の名があります。

 金毘羅大権現の石碑は元治元年(1864年)と刻まれています。施主に寅乃助(馬渡又兵衛)の名があります。

 

 

浅水川の水門

根城南部八戸弥六郎 姥水門
 根城南部八戸弥六郎直義は南部氏一族で野沢川水系を利用した姥水門を構築し、正法寺地区から八太郎まで約18キロにわたる幹線水路を構築して広大で平坦な長苗代平野の水田開発を行いました。この用水路利用者浴線、正法寺から八太郎に至る地区をこの時代から長苗代村と呼んでゐました。長苗代一千四百石の年貢米上納高は領内では最高でした。

 張田新水門(又兵衛水門)
 1780年、根城南部時代、長苗代平野一帯の開発が行われたための野沢川下流の正法寺に堰口水門を築造して水を取り入れて水田に利用しました。この地帯は泥田が多く水使用量が少なくて、当初は水門一カ所で十分でありましたが、その後八戸藩時代に入り、水田を改造して生産力を高めるために湿田の干田化改良を始めました。ところが一カ所の水門では水量が不足し始めました。特に長苗代平野のうち、南側、馬淵川沿岸沿いの尻内、内舟渡、悪虫、石堂、河原木、この地域に水量が届かなくなった水田を畑地に切り替えなければならなくなりました。天明年代、当時矢沢に住んで名主をしていた又兵衛が実費で張田、正法寺の中間に新水門を造り、長苗代中央に向けて6キロに渡る堰を造り、尻内、内舟渡、石堂、悪虫、河原木地域の水量の不足な地域に用水が届くようにし、水田化を達成させ、そのことがあって水門は又兵衛水門と呼ばれた時期があった、と張田水門の遠隔史にあるそうです。つまり、張田水門は八戸藩時代に入ってから築造されたことになります。昭和年代までは普通に又兵衛水門と言っていました。

参考:松橋金蔵氏ノート

 

 

飢饉

 八戸地方はヤマセが吹く冷涼な気候のため、凶作・飢饉が繰り返し起こっていました。数年おきに起こる冷害により疲弊しきっていた八戸藩に、天明3(1783)年、東北三大飢饉の一つ「天明の大飢饉」が追い討ちをかけました。飢饉の被害は石高2万石のうち1万9千石、死者・行方不明者は人口およそ6万3千人のうち3万人にも及び、藩に大打撃を与えました。


 文政2(1819)年、8代藩主南部信真(のぶまさ)公が、天明の飢饉の後、緊迫した藩財政を立て直すため野村軍記を責任者に、藩政改革に乗り出しました。命を受けた野村軍記は、まず手始めに農民の年貢の徴収強化を打ち出しました。続いて藩の商業・流通の改革として塩・大豆等特産物の専売制をとりました。改革は功を奏し藩財政は徐々に持ち直してきましたが、一方で重税・労役のため、農民の負担は年々大きくなり生活が苦しくなってきました。


 天保3(1833)年、八戸の四大飢饉の一つ天保の大飢饉「七年飢渇(けがじ)」が八戸藩を襲いました。野村軍記はその対策として農民の1日の食事を稗三合と定め、残りはすべて強制的に買い上げる「稗囲い制」を打ち出しました。握り飯は食うなとする施策に百姓は真っ向から反発しました。

参考:八戸88ストーリーズ 滝尻侑貴先生の記事

 

南部の殿様が馬渡家へ

 これは親戚の馬渡又五郎さんが語っていた話だそうです。南部の殿様は、たびた家来を引き連れて馬渡家に立ち寄り、将棋を打っていたということです。その間に馬の世話係が馬の体を洗っていたという話も伝わっています。