【初めての海外旅行】1996.3月、関西空港からは対岸に阪神大震災で被害の大きかった神戸の街並みが見える。11:05 ベトナム航空機に搭乗。機内はみんな日本人。こんなに多くの日本人がベトナムに行くのか。最近注目度No.1のベトナムだ。
16:00 アジア大陸が窓から見える!ベトナムの高くて険しい山と谷。土の色は赤く、くねくね曲がった川が何本も視界に広がる。
17:00 どんどん低空飛行になってきた。民家が見える。車やバイクで走る人も見える。水田や畑などの農村が広がっていて、巨大なヤシの木が群生している。
15:20(日本時間17:20)、タンソンニャット国際空港に到着。滑走路にはヤギが放牧されている!日本で見たことのない種類のヤギ。滑走路の真ん中で飛行機は止まり、タラップを降りる。入国審査では長い時間並んで時間がすぎた。ようやく自分の番になった。こわそうな表情の審査官。何かぶつぶつ言われた。「え、何ですか?」「滞在ホテルの名前を書け!」予約をしているわけじゃないけど、サイゴンホテルと記入する。
16:00 入国審査と税関審査が終わり、ベトナムドンに両替をしようとしたけど忘れて人の流れについていく。目の前には1本の花道があり、両サイドからワーワーと大きな声、声、声。「自分のタクシーに乗れ!」と勧誘しているのだ。
【旧サイゴン】タクシーに乗って空港を出ると、目の前の光景に啞然とする。ものすごい数のバイク。すべてホンダのスーパーカブ。ガイドブックで読んではいたけど、実際に目の前に何千何万というバイクが道路を占領して走っている。交差点では信号がなく、八方からバイクが行ったり来たりしている。無法地帯か。そして、ものすごい数のクラクションの音に耳をふさぎたい。タクシーで中心部に向かう。
「目の前にある建物は安いホテルだ。」と言われてタクシーは止まった。ホテルの人が出てくる。「まず入って見て。それから考えていいから。」値段交渉をして、3日間で50ドルで泊まることにした。ここはブイビエン通り。外国人の観光客が集まるファングラーオ通りやブイビエン通りは以前は1日10ドルくらいで泊まれたけれど、今は20ドルくらいに値上がりしたという。本当かな、初めての海外旅行で、英語もあまり上手に話せないし、ベトナム語は完全にわからないし、これでいいことにしよう。「銀行に行って両替をしたいんだけど。」「連れていってあげるよ。」バイクの後ろに乗せてもらう。途中、ベンタイン市場、人民委員会、統一会堂などの名所を過ぎていく。
みんな、腰元の貴重品を入れているバッグをじろじろと見ている。油断ができない国だ。タムさんが「コーヒーは好きか?」と聞いてきた。街角のカフェに入り、路上にはりだしたテーブル席でコーヒーをたのむ。アルミの蓋からコーヒーがしたたり落ちる。タムさんは気をきかせて、ベトナムの伝統的な飲み方ができるコーヒーを注文してくれた。ブラックで飲むとめちゃくちゃ苦く、コンデンスミルクを入れると苦味とあまみが混じってとてもおいしい。カフェの女の人も美人だ。
しかし、この無数のバイクで無法地帯のような交通ルールをどうにかしてほしいし、音はうるさくて耳が痛くなりそうだし、街はゴミの臭い、ヌォックマム(魚醤)の独特に臭いで吐き気がしそうだ。好奇心で人々は話しかけてくるが、みんな腰元のバッグをじろじろ見ている。ベトナムに来てまだ3時間だけど、何だかもう日本に帰りたくなった。これからの7日間はまさに試練の旅だ。ホテルに戻ると若い旦那が「タムさんにチップを2ドルはらうべきだ。」と教えてくれた。
1ドル=105円=11,000ドン
フォー5,000ドン
街を歩く、次々とシクロドライバーが話しかけてくる。「ノーサンキュー」を繰り返し、疲れる。街でフォーを食べたけど、おいしいとは思えなかった。香菜の香りが強烈で、どくだみのような臭いにおいだし、麺もまずいしヌォックマムの臭いも強烈だ。
ファングラーオ通りに来ると、日本人も見かけた。バインミー(フランスパンに具をはさんだもの)やチュールア(豚肉をすりつぶしたもの)はおいしかった。フランス統治の時代があったから、その影響を受けた食べ物もある。明日から食事はファングラーオ通りにしよう。不衛生な国では、赤痢、腸チフス、細菌性食中毒、マラリア、A型肝炎、破傷風などが怖い。食べ物と水に気を付けて過ごそう。
ホテルに戻ると、スタッフの人たちはみんないい人たちだということがわかった。自分の英語が下手でも、話をよく聞いてくれ、積極的にコミュニケーションをとってくれた。明日はクチトンネルに連れていってもらうことにした。
【サイゴンBT】5:00に街が動き始めた。バイクが走る音がする。三角すいのすげがさをかぶった人たちが商売するものを運んでいる。フォーボーやバインミーを売る人たちが準備しているのが窓から見えた。6:30にホテルの玄関が開いたので、外に出てサイゴン・バスターミナルの下見をする。全部ベトナム語の標記ばかりでよくわからない。時刻表もないし、路線図もない。行先だけが表示されている。いろんな人が行先や値段などを教えてくれた。シクロドライバーやタクシードライバーには悪質な人が多いが、バスは公共の乗り物なので、きちんと値段が決まっているし、ぼったくられることがないので安心だ。一人のおじさんに話しかけてバスについて質問すると、周りの人が好奇心でたくさん集まってくる。日本では考えられないことだ。
【ベンタイン市場】ここは庶民の世界だ。欧米人の観光客が多く訪れているホーチミンシティだけど、さすがに市場になると完全にベトナムの世界で入り込めないような雰囲気がある。おばさんたちが「フォーを食べる?」と誘ってくるが、「コム(ごはん)を食べたい!」と伝える。いろいろな具を選んでごはんの上にのせるのだけど、見たことのない食べ物ばかりだ。ちょっと前に日本でコメがなくなり、タイ米やカリフォルニア米を輸入した時があったけど、おいしくなかった。ベトナム米もパサパサしておいしくない。「ヌォックマムをかけて食べるとおいしいんだよ。」昨日は強烈な臭いと味で吐き気がしそうと思ったけど、少しだけかける程度なら大丈夫そうかも。
となりの店のおばさんが「ジュースを買っておくれ。」と言う。この国では冷蔵庫が貴重だ。瓶のまま冷やされるということはない。コップにジュースを入れ、それに氷を入れるのだ。この氷が病気の原因になるという。ここの土地の水を凍らせただけだし、土ぼこりや菌類がまじっていることも考えられるという。氷を割る時も、だいたいの店がサビた金物で、きたない雑巾みたいなもので氷を包んで砕き割っている。ベトナムで水分をとる時は必ず熱してから飲んだ方がいいだろう。
【クチへ】20,000dongで買った三角すいのすげがさをかぶり、ユンさんのバイクの後ろに乗る。天気予報は35℃、道はバイクだらけでクラクションの音が鳴り響く。ぶつからないようにするためにクラクションを鳴らすという。しばらくすると、田舎の農村に入った。人々の着ている服の模様などが明らかにホーチミンシティとは違う。農業用の水路がたくさんあり、水田が広がり、アヒルもいる。小学生が白いシャツを着て、青いズボンをはいて、遊んでいる風景をたくさん見た。子どもたちが手を振ってくるのでかわいい。
10:30 ようやくクチに到着。道路の舗装は悪いし、40kmもの長い道のりをバイクに乗っていて背筋が疲れた。ユンさんが「少し休憩しよう。」という。「冷たいミルクを飲もう。」という。自分はいらないというのに、ユンさんは「いいから飲んでみろ。」という。仕方がないので注文してしまった。これはユンさんのおごりかと思ったら「あの女の子に4000ドンを払って。」という。そうしているうちに軍服をきた人が来て「こっちに来い。」と呼びにきた。
クチトンネルの資料館に入ると、日本人の団体観光客もやってきた。日本語によるベトナム戦争の映像資料を見る。映画「プラトーン」「7月4日に生まれて」「天と地」などは、やはりアメリカ映画であり、アメリカ側の目で見たベトナム戦争だなと思う。ベトナムの解放戦線郡の側から見た映像資料を見ることができたのは貴重だ。続いて、トンネルを見に行った。軍服を来た人たちは、今では観光地化されたトンネルの案内人だ。茂みの中を歩くとあちこちで爆竹がなる。あちこちにピアノ線がはられてある仕掛けがある。戦時中なら威力のある爆薬なのだ。ジャングルの中ならベトコン(解放戦線軍)の方が有利なのもわかる。落とし穴の仕掛けも公開されている。ゲリラ戦の怖さを知らされた。トンネルの中はとても狭く、暗く、湿気でむんむんしていた。こんなところでベトナム人は地下生活をしてアメリカの攻撃に耐えしのいだ。この地下網が数キロメートルの範囲に広がってつながっている。
【帰り道】農村の民家で昼食をごちそうになった。この民家では、ベトナム料理のゴイクンなどに使うライスペーパーを作っていた。米をぐずぐずと煮立て、かき混ぜてとろみがついたらクレープを焼くように熱する。あとは竹網の上に敷いて日光にあてて乾かす。しかし、この農村の人たちはライスペーパーを食べないのだそうだ。全部、ホーチミンシティの都市部に住んでいる人たちの胃袋に入るのだ。そんな貧しい農村でも、子どもたちの笑顔はすばらしい。昼食で出されてきたのはフォーボーだった。しかも、醤油味でも塩味でもない。オレンジ色にコテコテしたスープで、何かの肝臓や心臓みたいなものが入っていて、これは精がつきそうだ。1ドルとられたけれど、この家の人にとっては大事な生活収入だ。「ありがとう、おいしかったよ!」
午後、ホーチミンシティに戻る。ホテルの人に「ユンさんにチップをいくら渡すべきかわからないんだけど。」と聞くと、「チップは感謝の気持ちを表すものだから、いくらというきまりはない。」と言われた。それはそうなんだろうけど、大体の相場というものもわからない。するとユンさんは2ドルを請求してきた。
ホーチミンシティを歩くと、貧しい子どもたちが群がってくる。「お金をください。」ベトナムはつい最近まで「世界で最も貧しい国」と言われた。昨年、ようやくアメリカと国交を回復し、ベトナムが大きく変わる転期になっているけれど、まだまだこういう子どもが都市部にも多い。
【シクロドライバー】昨日買った三角すいのすげがさをかぶって歩いていると、いつものおばさんたちが指さして笑っている。「なになに、どうしたの?」話しかけるとまた売春の話を持ち出される。「けっこうです。」街を歩くと、すぐにシクロドライバーがよってくる。苦労してようやく断っても、次のちがうドライバーがよってくる。「絶対につかれて、あとでシクロに乗りたくなると思うぜ。」とドライバーはみんな言う。レロイ通りやドンコイ通りを歩き、サイゴン川のほとりまで来る。船上レストランは20:00でないとオープンしないらしい。夜暗くなってきたし、ついにシクロに乗ってファングラーオ通りへ戻ることにした。明日も1日貸し切りでホーチミンシティを案内してくれる。料金を合わせて8ドル。
カフェで夕食をとる。サイゴンビールが最高においしい!通りにはカフェがたくさん並び、ネオンが輝いている。それからベトナムコーヒーも最高においしい!苦くて甘いミルクコーヒーの後に口直しで飲むベトナム茶もおいしい。
ホテルに戻る。「明日はどこに行くんだ?」「明日はシクロに乗ってホーチミンシティを1周するんだ。」「それはいけない。シクロドライバーはみんな悪質なばかりだ。」と女主人は言う。シクロは運転手が後ろで自転車をこぎ、乗客は前の方に座る。後ろからバッグをひったくられたり、ナイフを首につきつけられたりしてお金を何倍にもとられるトラブルが多いという。確かにガイドブックにも夜のシクロは絶対に乗ってはいけないと書いてあるけれど、さっきもシクロに乗って帰ってきたし、明日は貸し切りの約束をしてしまっている。女主人は「絶対にやめた方がいい、そのシクロを断って。うちのホテルの人が10ドルでバイクを使って案内してあげるから。」と1時間にわたって説得しようとした。「だいじょうぶだよ。自分は足が速いから、何かあったらすぐに走ってにげるよ。」
【ベトナム料理】22:00 ホテルの人の息子(小学生)とスイス人の客の3人で、バインセオを食べに行くことになった。スイス人は船の仕事で、東京や横浜にも行ったことがあると言う。男の子は英語が堪能で、親の影響を受けてか商売精神もよく身に付いている。この子の案内で、ホーチミンシティで一番おいしいと言われるバインセオの店に行くことになった。中心部からかなり北の方に向かった。店は露店になっていて、たくさんの客がいた。最初にゴイクンを食べた。ライスペーパーでレタスや肉を巻いて、ヌォックマムをつけて食べる。ライスペーパーが固くてあまりおいしいと感じなかったけど。次にバインセオを食べた。お好み焼きの生地のようなものに具をのせてはさむクレープのようなもので、これもヌォックマムをつけて食べる。自分もスイス人も、子どもの前では「おいしい」と言うものの、もうおなかいっぱいだと言って帰ることにした。喉がものすごい乾くので、ついに氷入りのソーダを買って飲んだ。おなか大丈夫かな。
【ホーチミン博物館】8:00 シクロドライバーが迎えに来た。サイゴン川の岸の近くにあるホーチミン博物館を見学。ホーチミン氏が生存中に使用した遺品が展示されている。ベトナムの国の歴史とホーチミン氏の功績が展示されていた。革命と独立のリーダーだったホーチミン氏。世界はアメリカを中心に動いているが、先進国の理屈だけでは世界が回らないということがわかった。ホーチミン博物館から見るサイゴン川の眺めは最高だ。何艘もの船が行き交う。エンジンの音がとぎれることがない。水上交通の拠点になっていて、右手には造船所が建ち並ぶ。ここはベトナムの経済が力強く発展していることがわかる象徴的なところだ。
【歴史博物館】9:30 観光の中心街からベトナム市中に入ってきたので、用心して、地図を見ながら今どこを通ってきているか赤ペンで書き込みをする。歴史博物館では、ベトナムの原始時代から仏教文化への発展などを学ぶことができた。イギリスや台湾の団体ツアーも見学に来ている。
【戦争犯罪展示館】ベトナム戦争で使用された戦車、戦闘機、武器、弾薬なども多く展示されていた。被害を受けた人民の姿を記録したものや、化学兵器による被害の説明があった。中でも衝撃的なのは、奇形児が瓶の中で薬漬けになっている展示だ。こういう子を生んだ母親はどんなに哀しかったことだろう。
【チョロン地区】ここはチャイナタウンである。通り沿いに並んでいる商品の質や量を見ても、ホーチミンシティの中心部よりも豊かさを感じる。色とりどりのプラスチック製品。土ぼこりが舞う中心部よりも明るさを感じた。このあたりには外国人の姿はなく、ベトナム市民ばかりだ。シクロドライバーが何か悪いことをするかもしれないから警戒をして、地図に通っている道を書きこみ、今自分がどこにいるのかチェックをする。ベトナム人が外国人を殺害したというニュースは聞いたことがない。ただ、お金がほしくてインチキなことはする。ベトナムの人は笑顔だけど、どこまでが本当の笑顔か分からない。
ちょうど学校が終わって門から出てきた子どもたちに囲まれる。覚えたての英語だろう。簡単な英語で「あなたはどこから来たの?」「その三角のすげがさ、ほしい!」「アイラブユー!」などと女の子たちが笑顔で言う。
市場に行って、チャーゾーを食べる。生春巻きというライスペーパーで包んだものをさらに油であげたものだ。「ゴンクア!(おいしい)」これならベトナム料理にあまりなじめない自分もどんどん食べられる。ただ、こういう市場では汚い水で皿や箸を洗っているし、コーラに入れる氷だってきれいな氷とは言えない。ベトナムでは冷たい飲み物ではなく熱いお茶などがいい。
昼食をとりおわって市場の奥へ奥へと進んだ。一本裏の道に入った瞬間に、そこはいわゆるスラム街だということがわかった。表の通りとはちがって、笑顔の世界がない。学校に行かずに家事手伝いする貧しそうな子どもたちがいた。道路はでこぼこ。ゴミや排水が垂れ流しで悪臭が漂う。ハエがブンブン飛び回る。ベトナムは識字率が88%と、第三世界と言われる国の中ではめずらしく教育水準が高い方だ。それでも、一部の人は貧しい暮らしをしている。
【シクロドライバーとケンカ】シクロドライバーと1日貸し切りで8ドルと約束していたのに、急に10ドル渡せと言ってきた。約束が違うじゃないかと言い返してケンカになる。たくさんのシクロドライバーが集まってきた。ドライバーは先ほどの笑顔から急に目つきの悪い人間に変わった。「10ドル払わないと、ホテルに行ってナイフでおまえを刺す。」と言ってきた。中間の9ドルを渡すと、ドライバーはにやにや笑いながら去っていった。後から思えばたった1ドルや2ドルなんてどうでもいいことなんだけど。
【明日の計画】夕方、ホテルに戻って今日の1日の出来事をみんなに教える。「そうだろ、だからあれほど言ったんだ。シクロは今、とても危険なんだよ。悪質なんだよ。明日はどうするの?」「明日ははチェックアウトして、カント―とかメコンデルタの街に行く。」「何で行くの?」「長距離バスで行く。」「バスはやめた方がいい。スリが多いし、乗り継ぎが大変だ。バイクでミトーの町に連れて行ってあげるから、バスはやめろ。」冗談じゃない、60kmも離れたミトーまでバイクの後ろに乗っていくなんて。この前、クチに行ったときだってけっこう疲れたのに。しかも24ドル(2500円)もとられるなんて。この前、サイゴンBTで調べたら、カント―まで18,600ドン(190円)で済むのだ。
部屋に戻ると、ちょうど夕日が沈む時間だった。ベランダに立つと、空は真っ赤にそまり、家という家の壁が真っ赤に染まった。ネオンの光も輝き、すべてのものが真っ赤に包まれていった。ベトナムで過ごす3日目の夜が過ぎようとしていた。
【サイゴン・バスターミナルにて】いつも5時には目が覚めるようになったけど、今日は3時45分に目がさめた。今日はメコンデルタに出発する予定。さらば、ホーチミンシティ。サイゴン・バスターミナルに行くと、たくさんのバスがあるので、どれがミエンタイ・バスターミナル行きのバスなのか分からない。すぐにたくさんのベトナム人がよってくる。「どこに行くんだい、シクロの方がいいよ。」「いや、おれのバイクの方がいい。」とみんな口々に言いたい放題。女の人が「ミエンタイへのバスはあれだよ。」と教えてくれた時だった。かすかに自分のリュックサックのチャックが開く音がしたのだ。はっと振り返ると男の人が足音も立てずにすっと去るのが見えた。女の人が「ノープロブレム」と言った。幸いにも何も盗まれずにすんだようだったが、ポケットには免許証や保険証など日本の生活で必要なものを入れていた。お金じゃないから盗まずに去ったとは思うが、このわずかな時間にチャックを開けるだなんて。
ミエンタイ行きのバスはたったの3000ドン(30円)だった。シクロやバイクに比べると格安だし、クラクションの音から解放された。
【ミエンタイ・バスターミナルにて】7:30 メコンデルタのヴィンロンやカント―に行く長距離バスの発着場所。たくさんの人でにぎわう。すぐにシクロやバイクタクシーの運転手に取り囲まれる。「カント―に行きたいんだけど。バスに乗りたい。」と言うと、親切な人が切符売り場に連れていってくれた。このあたりはもう観光地ではないので、英語もなかなか通じない。切符売り場のおばさんに英語で「カント―」と言っても、ベトナム語では発音が違うらしく、なかなか通じないので紙にスペルを書く。カント―行きのバスは15,600ドン、ドルにするとわずか1.5ドルなのだ。日本円で200円もしない長距離バスの旅が始まる。
男の人が広場に連れていってくれた。長距離バスが何百台も止まっていた。「このバスに乗れ。ここに座れ。」すでにバスにはほかの乗客も乗っていて、自分は最後列に案内された。だんだんバスは人でいっぱいになり、ついにぎゅうぎゅう詰めになった。通路にも人が座るようになった。それなのに、物売りたちが無理やり入ってきて、「ジュースは飲まないか、パンは食べないか、バナナを食べないか。」と大声で連呼する。バスの外にも物売りの人がたくさんいて、窓越しに商売する風景は圧巻だ。バスの車体の上にも荷物やバイクを積んで、バーンバーンと乱暴に物を置く音が響く。あきれてしまうくらいのにぎやかさだ。自分のとなりにはアメリカ人が座った。英語を話せる人が隣にいて安心。アメリカ人は物売りからバインミーとチーズを買って朝飯にしていた。8:00 バスが動き始めると車内にいた物売りたちが急いで降り始める。オンボロ長距離バスは重量オーバーでゆっくり出発。だいたいのバスは他の国のバスの払下げであり、日本で1950年代か1960年代に使われていたと思われるバスもたくさんあった。行先の表示も、車体のバス会社名の表示も変えることなく、昭和のレトロな感じのバスのままだから貴重な文化財だ。隣のアメリカ人は約1か月もベトナムを旅行するそうだ。自分は1週間。「オオ、ドウシテソンナニ短イノ?」
【バス大爆走】農村に入る。途中ところどころに田舎町があり、カフェがあったり、すげがさをかぶった人たちが何かを売っていたりする。ガソリンスタンドでバスが止まると、すかさず物売りの人たちがバスの中に押し入ってくる。「これを買ってよ。」と言われるたびに「ノーサンキューです。」と答えなければならない。この田舎町でもどこかゴミの臭いがして、ヌォックマムの臭いがしている。家の造りが木造やかやぶきの屋根が多くなってきた。この田舎町を出発すると、バスは急にスピードを上げた。時速100kmは飛ばしているのではないかと思うくらい。隣のアメリカ人と顔を見合わせておどろく。農村を走る一本道をほかのバイクも走っているが、それを払いのけるように、パパパパパパーン!パッパッパッー!パパパパパパーン!とクラクションを響かせて突き進む光景がすさまじい。そして、小さな川を渡る橋は必ず段差があり、バスはドテンドテンと縦に横にジャンプする。自分は「うぁ!」と思わずさけび、アメリカ人はためいきをついてあきれ顔をするのを見て、ベトナムの乗客のみなさんがくすくすと笑う。こうして、カント―まで150kmの旅が続いた。だんだんヤシの木のような熱帯植物が多くなってきた。そして、メコンの支流と思われる川が何本も姿を現すようになった。

天井が今にも吹っ飛んでしまいそうな勢いでバスはでこぼこ道を気にせずに突き進む。ベトナム人女性が英語で話しかけてきた。「メコンデルタからホーチミンシティに戻ってきたら、私の家に寄っていきなさい。夕食をごちそうしますよ。」と紙にベトナム語で住所を書いて、女性はバスを降りていった。乗務員が天井からスーパーカブを降ろし、それに乗って女性は去って行った。アメリカ人が言った。「あの人、きみのことが好きなんだよ。」「え、そうなの?」
ついにメコンの前江が目の前に開けてきた。水は見事に泥色で、対岸が数キロメートルもある大河を見たら、何時間もぎゅぎゅう詰めの旅疲れも吹っ飛んだ。たくさんの船やボートが行ったり来たりしている。橋はなく、8台のバスがカーフェリーに積まれて対岸に渡った。その間も、ずっと物売りたちがバスの中に入ってきて、ビニール袋の先端をゴムで縛ったジュースを売りに来た。
対岸に渡ってからバスは再び走り始め、アメリカ人はせまい座席に座っているよりはマシだと思って、自分のリュックを枕にして通路で横になった。もう汚さなどは気にしていられない。やがて、バスはメコンの後江にさしかかり、ふたたびバスはカーフェリーの中におさまった。バスから降りてもいいようだったので、船の中を歩いてみる。今日は天気もよく、広大な大河をフェリーは突き進んでいく。
4時間40分の長旅が終わった。カント―に到着。アメリカ人は「もうすぐカント―だけど、君は今日はどうするんだ?ぼくはここのホテルに泊まるつもりだ。」と聞いた。「泊まるところは決めていない。カント―川に行ってボートに乗りたい。」アメリカ人とはここで別れる。
バスを降りた瞬間にシクロやバイクドライバーに囲まれる。カント―の中心部まで1.5kmあるので、歩くのは大変。方向もさっぱり分からないので、1ドルでバイクに乗る事にした。「バイクに乗る前トイレに行きたいんだけど。」「ここだ。」最高に汚いトイレ、そして入るためには門番の人に500ドン払わなければならなかった。
【カント―川のほとり】カフェやレストランがたくさんあった。カフェの従業員が「昼飯を食べていかないかい?」と声をかけてくる。暑いので2,000ドンでレモンジュースをたのんだ。めちゃくちゃうまい!今度は女の人が話しかけてくる。「こんにちは。メコンのボートに乗りませんか。」フーンさんと言って、現在はエンジンを取り付けたモーターボートが主流なのに、今でも手漕ぎで櫓を漕いでいるそうだ。「ゆっくり進むのがいいですよ。」この人はやさしそうな感じの人、悪い人ではなさそうだ。8ドルでメコン川のボートクルーズを予約。
ボートに乗る前に、ホテルを探す。インターナショナルホテルは名前はかっこいいけれど、そんなに豪華なホテルというわけではない。料金は130,000ドン(1,300円くらい)と安く、ホーチミンシティで同じくらいのホテルはせまくて汚ないのに比べると、部屋は広く、エアコンはないけれど天井にはファンが回っていて、バルコニーに出ると目の前にはカント―川が流れて最高の景色だ。
【水上マーケット】さっき昼食を食べたカフェに戻ると、フーンさんが待っていてくれた。桟橋には物売りのおばさんたちがたくさんいて話しかけてきたけれど、ベトナム語は分からないので通じなかった。でも、みんな笑顔で楽しそうだし、いい人ばかりって感じがした。エンジン付きモーターボートはけっこう大きいけれど、フーンさんの手漕ぎ舟は小さい。櫓を支える支柱があって、漕ぎ手は立って櫓をこぐのだ。午後の陽射しはとても強く、熱射病になるんじゃないかと思ったけれど、今日も三角のすげがさのおかげで何とか快適だ。ゆっくり舟は進み、旅疲れで眠くなるのをがまんした。
川岸には材木商や酒を積んだ舟の発着場所みたいなところが多い。岸沿いの道路には民家が建ち並ぶ。人々の生活風景を見ることができる。時々子どもたちが「ハロー!」と手を振ってくる。メコン川の対岸には巨大なジャングルと民家が見えていたが、あれは対岸ではなく中州の島である。その島の向こうにまた中州の島が見え、その向こうに対岸があるのだからメコン川は本当に気が遠くなるような広さだ。1時間ほどかけてフーンさんは対岸に渡ってくれた。橋のたもとには水上マーケットができていた。何艘ものボートが集まっている。フーンさんは自分の舟をほかの舟に横づけした。そしてパインナップルを買い、ナイフで皮を向き始めた。ただナイフで皮を剝くのではなく、斜めに切れ目をいれていく剥き方は芸術的だと言っていい。ナイフでいちいち泥色をした川の水でじゃぶじゃぶ洗うのは抵抗を感じるけれど。もしかして、これを自分にくれるとか?「はい、どうぞ、食べて。」大当たり~、これでおなかこわしたらどうしよう。勇気を出して、パインナップルを食べると、とても甘くておいしかった!あざやかな黄色いパインナップルに塩を付けて食べるとは日本では考えられなかったけれど、美味である。冷えていればもっと最高かもしれないけれど。
【フルーツ農園】「別料金になりますけど、この先の支流に入っていきますか。フルーツ農園もありますよ。」「行きましょう!」フーンさんは26歳、もう何年もこの仕事をしているそうだ。その労働の跡は、手や足のしわの深さに表れている。少ししか英語を話せないようだけど、やさしくていい人だ。
支流に入ると、川幅はせまくなり、両岸には見あげるほどの熱帯植物と民家がすぐ間近に見えた。ここの人々の生活は物質的には豊かではないけれど、家族みんなが助け合いながら仕事をして暮らしているのが見て分かった。子どもたちは舟にすげがさをかぶった日本人が乗っているのを見ておおはしゃぎ。「こんにちは!」「こんにちは!」と手を振る。川幅はどんどん狭くなり、ジャングルの中で、支流と支流が合流したり分離したして迷路である。広いメコン川の時は、川は流れているのかどうかわからないくらい穏やかであったけれど、川幅がせまいとけっこう速い流れがあるんだと気付いた。あたり一面の緑の世界に眠気は消え去った。フルーツ農園に着くと、ココナツの果汁とベトナムコーヒーをいただく。バナナ、パイン、マンゴー、オレンジも運ばれてきた。しばらく和やかな時間をすごし、椅子によりかかってくつろぐ。ここでみんなは農園を耕して生活しているそうだ。何もない田舎だけど自然が豊かで何といいところだろう。このフルーツ農園では4ドルを払う。
再びボートに乗ると、もう一人の日本人を乗せたモーターボートがやってきて、ビューンと自分を抜き去って行った。時々、コメを積んだ大きな船とすれちがうと波ができて舟は大きく揺れたが、それもおもしろい。民家は川に面していて、生活用水をくみ上げている人もいる。次々とドボンと川にとびこんでじゃれあって遊ぶ子たちや青年たちもいた。川の中から「こんにちは!」と手を振ってくる。
【河岸公園】昼は気温35度くらい。腕も茶色に日焼けした。でも、夕方になるとひんやりして涼しさを感じる。夕日が沈むころはロマンチックな風景だ。そして、あたりが暗くなる。夜のメコン川を舟で戻るのはこわかったけれど、5時間のボートクルーズは本当に楽しかった。インターナショナルホテルはグリーン色にライトアップされて異国情緒たっぷり。夜はカントー川ほとりの公園で夕食をとったり、涼んだり。ホーチミンの像がたつあたりは市民の憩いの場であり、夜9時になってもたくさんの人たちの安らぎの場になっていた。

【朝日】朝が苦手なはずだったのに、ベトナムに来てからは早起きが普通になった。朝のベトナムを楽しまないのはもったいない。空がだんだん白み始める。通りにはバイクのエンジン音が増えてくる。メコン川を走るボートのエンジン音も増えてくる。バルコニーに出ると、泥色の大河は朝日を受けて金色に輝く。
6:30 ホテルのレストランの開店と同時に朝食をとる。フロントの係のお兄さんに「朝食券はないの?1泊朝食付きだよね。」と言うと、しぶしぶメモ紙程度の券をくれた。ゆで卵はものすごく熱くて、3時間くらいしないとさめないくらい熱かったから食べることができなかった。ロールパンやグレープフルーツジュースはおいしかったけど。
【カント―BT】バスターミナルに着く。今日はチヤウドックに行くバスに乗る予定。シクロドライバーやバイクのドライバーが「乗れ、乗れ」とうるさい。だいたい、ここはバスターミナルで、バスに乗る目的で来ているのに勧誘するなんてしつこい。「チヤウドック行きのバスはここにはないよ。」などとうそを言う人もいる。一人の少年が自分のうでを引っ張っていった。そして、チヤウドック行きのバスの前に連れてきてくれた。ありがとう!バスに乗る前に、また500ドンはらってトイレに行く。これから5時間の長旅が始まるから。
【チヤウドック行きのバス】バスに乗ると、すでに満席だった。ほかのベトナムの人と同様に、通路に荷物を置いてそれに座る。バスが動き始めると、一番後ろに座っている人たちが「こっちに来い。こっちに座れ。」と呼ぶ。ここからは、英語を話す人がいなく、すべてベトナム語の世界なので、ガイドブック「地球の歩き方」を頼りに必要な会話を紙に書いて会話する。一番出口に近いところに座っていて席をゆずってくれたお兄さんも、先ほど自分をこのバスに連れてきた少年も、みんなこのバスの乗務員だったのだ。バスは郊外に出ると、また時速100kmくらいあるんじゃないかと思うくらいの高速で走り始めた。実際は距離の時間を考えると時速100kmのわけがないけれど、それくらいスピードを出しているように感じる。パパパパパパパーンとクラクションを鳴らし続け、バイクや自転車に乗る人々を払いのけて突き進む。ところどころでバスに乗りたい人を見つけると、運転手が大きな声でさけぶ。すると、乗務員のお兄さんや少年は急いで満員のバスの中にお客を引き込む。バスの天井ではドンドンと音がするのは、何か大きな荷物を積み込んでいるのだろう。
【好奇心】ベトナム語は話せないけれど、彼らは好奇心で自分に話しかけてくる。自分が持っているもの、身に付けているものに興味がある。ガイドブック「地球の歩き方」にも興味があるようだ。自分たちの国「ベトナム」がきれいに美しく紹介されているのがとてもおもしろいようだ。バスの後ろには子どもたちもたくさん乗っていて「わたしにも見せて!」とねだってくるのがかわいい。乗務員のお兄さんは、「その腰につけているバッグにはお金がたくさん入っているのか。10,000ドンをおれにくれ。」という。それはやるわけにはいかないが、「赤いボールペンがほしい。」というので、席をゆずってもらったお礼に赤ペンをあげる。
【チヤウドック】5時間のバスの旅が終わり、カンボジアとの国境の街チャウドックに到着。乗務員のお兄さんや少年に別れのあいさつを言う時間もなく、降り立った瞬間にシクロやバイクの運転手に取り囲まれる。ベトナムはどこに行ってもバスターミナルは郊外にあって、街の中心部までは1.5kmくらいの距離がある。自分は体力があるので、方向さえわかれば歩いたっていい。でも、地図はあっても、迷ったら大変だし、とにかくシクロやバイクの運転手が話しかけてくるからうるさい!本当は3,000ドンのところを10,000ドンとふっかけてくる。いちいち値段交渉しないいけないのがうんざりするし、腹がたってケンカになるけれど、ようやく3,000ドンで交渉成立、バイクで中心部に向かう。
カフェで昼食をとる。ここのおばちゃんはいい人。菓子パンとジュースを買う。久しぶりに菓子パンを食べた。菓子パンは日本の菓子パンと同じような味だった。でも、今週はずっとベトナムの食べ物を食べていて、最初はまずいなんて思って哀しくなったけど、普通に食事をすることができるようになってきたかも。冷たいジュースも前は飲まないようにしていたけれど、今は飲むようになってしまった。グエンバントアイ通りを歩き、1泊40,000ドン(400円)と安いでチェックイン。残念ながら汚い部屋にがっかり。まるで幽霊でもでそうな暗くて汚い部屋。
【市場】バクダン通りとチラン通りの間にある市場は小さい市場だけれど迫力があった。食用の肉が山積みになっていたり、オレンジ色の液につけられた鶏肉が棒につる下げられている。両替をしたいけど、どこにあるのと市場のおばちゃんに聞くと、親切にも両替所に連れて行ってくれた。ここは宝石店だった。ベトナムドンを手にいれる。ここでも店員さんたちが好奇心でいろいろ話しかけてきた。「あなたは台湾人でしょ。」「日本人です。」
【サム山】中心部から5kmくらいのサム山へ歩いていく。水田地帯を眺めながら一本道を歩く。炎天下の中、三角のすげがさをかぶって正面に見える230mの高さのサム山を目指す。2.5km歩いて橋をわたったところで疲れてしまい、シクロに乗ることにした。サム山のふもとはお寺がたくさん並んでいた。中国式と言えばいいのか、ベトナム式とい言えばいいのかわからないけど、門前町としてお店もたくさんある。聖なる山に上りたいと思ったけれど、どこが上り口かもわからない。サム山を囲むように1周できる道があるので、そこを歩いて散歩することにした。裏側は、ただの道だった。まわりにはただ民家があるだけ。それでも、子どもたちが三角のすげがさをかぶって歩く自分を見てきゃあきゃあ騒ぎ、「ハロー!ハロー!」と手を振ってくる。お母さんたちもちょっと照れながら笑顔で手を振ってくる。一人の青年が「シクロに乗らないか。」と声をかけてきた。聞くと良心的な値段だ。じゃあ、乗ってもいいかなと思った時に、別のおじさんドライバーがやってきて青年をしかりつけた。「もっと高い料金で乗せないとだめだろ!」やれやれ、若い子たちはすなおでやさしいのに、どうして大人たちはこうもインチキなのだろうか。一人の少年が来て、話をしながらサム山の裏道を楽しく歩いた。やがて分かれ道が来て、「ぼくの家はこっちにあるんだ。家に遊びに来てよ。」というのだけれど、サム山のメイン道路でシクロドライバーと約束をしていたので、残念ながら別れることにする。本当はこの少年の家に行ってみたかった。
【シクロドライバーとケンカ】シクロのおっちゃんとは、チヤウドックの中心にある市場まで20,000ドンでつれていくように約束した。半分くらい進んだところで、おっちゃんはペダルをこぐのをやめた。「今日はとても暑い日だ。俺は具合が悪い。だから、25,000ドンだ。」「あ、そう。自分は元気だから、歩いていく。あなたは具合が悪いんだから、早く家に帰ってねていろ!約束の場所まではまだだから、料金は15,000ドンだ。」とお金を渡す。シクロドライバーは「しまった。」という表情をして後を追いかけてくる。別のドライバーが来て「何があったんだ?」と聞いてくる。インチキドライバーは「おまえには関係ないからあっちに行け!」と追い払うが、このやりとりをおもしろがってついてくる。
こうして、チヤウドックの中心部にもどってくる。市場の隣には黄色い壁の寺院があり、公園もあった。新聞を熱心に読んでいた老人とベトナム語で話をする。だれかと話をすると、別な老人もよってくる。孤児のようなやぶれた服を着た子どもが物乞いに来る。三角のすげがさをかぶった物売りの女性たちが通りすぎる。ホテルの近くの民家で、スーパーファミコンをやって遊んでいる子どもの姿があった。こんなところに日本の文化が入り込んできているとは!今まで目がきらきらと輝き、笑顔がかわいい子どもたちの姿を見てきたけれど、ゲームに夢中になっている子どもの横顔は残念ながらかわいらしさが全くなかった。
【カント―行きのバス】今日の長距離バスはとても疲れた。いつものように、満席になるまで人を探しながらゆっくり動き、止まっては動くを繰り返す。そして、郊外に出るとぶっとばす。そして、乗務員がひたすら叫んでいるのだ。「カント―行きだよ、乗れ、乗れ!」と言っているのか、「自転車もバイクもじゃまじゃま、どけ、どけ!」とでも言っているのか、その声がうるさいし、物売りの女性の声もうるさいし。チヤウドックに来るときのバスは和やかで楽しかったのに、今日は苦痛の5時間に感じられた。
カント―のバスターミナルに着き、例の500ドンを払うトイレで用をすませ、中心部に歩いていく。シクロやバイクと値段交渉をするのはめんどうくさいし、歩く方がおもしろいのだ。
インターナショナルホテルのフロントに行くと、男性はためいきをつきながら、またこの日本人が来たかという顔をして「残念ながら今日は満室で部屋がありません。」と言う。この前は朝食付きで泊っているから朝食券がないのかと文句をつけたことをまだおこっているのかもしれないし、熱すぎて食べられないゆでたまごを残したから機嫌が悪いのかな。
となりに建つカント―ホテルに10ドルで泊ることにする。部屋はきれいで、昨日チャウドックに泊ったホテルが幽霊の出そうな汚い暗いホテルだったのに比べると天国のように感じた。シャワーを浴びてから、部屋に備え付けのベトナム茶を飲む。ほんのりあまみのあるベトナム茶がのどを通り、ベッドで少し横になる。
【カント―の街にて】午後、カント―の街を散歩する。共産圏の国だなと思うのは、役所のような建物は、ベトナムの赤い国旗と、旧ソ連の赤い国旗を掲げているのを時々目にすることだ。
食堂で食べ物を買う。食堂を経営している家族が、すげがさをかぶっている自分をみて愉快に笑う。レモンジュース1,500ドン(15円)とパン500ドン(5円)を買って食べる。おいしい!
ベトコム銀行でトラベラーズチェックをベトナムdongに両替をする。ここはエアコンがきいていて涼しいけれど、アオザイをきた女性たちも冷たそうな表情に見えた。ベトナムの人が話す英語はいまいち通じない。80のことをエイティと言わずにアインティと言うのだ。魚のことをフィッシュと言わずにフィッツ、学校のことをスクールと言わずにツクールと言うから、何度も聞き返してしまった。
この前のフーンさんのボートが楽しかったから、また乗りたいな、と思ってカント―川のほとりを歩いていると、ラッキーなことにフーンさんに会えた。フーンさんも喜んでいた。ボート乗り場の前のカフェで働くお兄さんも自分のことを覚えてくれていた。「また来たのかい。」ココナツジュースを飲む。明日はホーチミンシティにバスで帰るのだと予定を教えると、別のカフェのおじさんが「それはやめなさい。疲れる。私の車に乗って行きなさい。明日はフランス人を乗せていく予定があるから、一緒に乗りなさい。」としきりに勧める。断るのに20分も30分もかかるから話し疲れる。
【すげがさ】すげがさの話をする。自分はこの三角のすげがさだ大好きだ。沖縄の人たちも形はちがうが、漁師さんや畑仕事をする人たちがすげがさをかぶるので、何か共通するものを感じる。国民の5分の1くらいの人がすげがさをかぶっているだろうか。自分はもっとたくさんの人がすげがさをかぶっているイメージがあった。急激な近代化が進むと、すげがさをかぶる人も少なくなっていくのだろうか。「このすげがさは、若い人はかぶらないのですか?年をとった人しかかぶらないのですか?」「うーん、そんなことはない。」「このすげがさをかぶる人は、農業や商業の仕事をする人たちがかぶっているようですね。」「うーん、そうとは限らないね。」では、一体、どういう人がかぶるのか。今頃になって気付いたのは、女の人しかかぶっていない。男の人はみんなキャップ帽子だ。「これは、もしかして、女性しかかぶらないのですか?」「おお、そうだよ。女性しかかぶらない。YOUは男だけれど、すげがさをかぶっているね。は、は、は、は。」みんなが大笑いする。
フーンさんの舟で再びメコンクルーズ。今日はスモールリバーのコースだ。手漕ぎの舟は中州の島に入って行った。小さな支流に入り、さらにその支流に入り、と川幅はどんどんせまくなっていった。この辺りは水路が網の目になっている。水の中に陸がある。集団下校をする子どもたち。コメを積んだボートが行き交う。両岸が民家でぎっしりうまった貧民階級の世界に入って行った。人々はそんなに暗い生活をしているようには見えなかった。カセットデッキがある家庭はガンガン音を鳴らし、にぎやかにおしゃべりをしながら洗濯物をほす人たちがいた。家族で団欒しているところもあって、自分を見るとみんな手を振ってくる。川に入った子どもたちがきゃあきゃあはしゃいで、川の中から手をのばして握手を求めてくる。
【ベトナム滞在最終日】早朝、目がさめて荷物の整理をする。ベランダに立つと、目の前には今日も朝日にかがやく金色のメコン川があり、舟が行き交う。カフェで朝食をとる。バインバオはベトナム風の肉まんで、うずらの卵が3つも入っているところがうれしい。そして、ベトナムコーヒーのあまい香り。近くのコーヒー豆屋に入ると、ベトナムコーヒー豆が8種類、ベトナム茶が10種類、大量のミネラルウォーターが店の棚に並んでいる。店に入るとおばちゃんがうれしそうな顔で歓迎する。「どこから来たの?はい、ここに座って。ここにリュックを置くとぬすまれるといけないから、こっちの方に置いて。」と言って、ミネラルウォーターも1本くれた。おみやげに2種類のコーヒー豆を買う。1袋7,000ドン。
カント―バスターミナルに行こうと思って歩き、人民委員会と噴水の前のカフェテラスを過ぎたところで疲れたから、何かに乗ることにした。正面からバイクで座席を引っ張るバイクシクロみたいな乗り物が来たので手をあげて呼び止める。サングラスをかけたおじいさんだが、かっこよさがあった。「3,000ドンでバスターミナルへ。」と言うと、だまってうなずいて連れていってくれた。「カムオン(ありがとう)、タンビエット(さよなら)。」
【ホーチミンシティに戻るバス】乗務員が前から3列目の席を確保してくれた。「荷物は盗まれるといけないから気を付けなければいけない。バスを降りるときにたくさんの人が出入りして、その時に盗まれるのだ。」と言って、運転手のとなりにリュックを置いてくれた。前の座席にはアメリカ人夫婦が座った。やはりアメリカ人は体がでかい。男性と握手したら、手もがっちりとしてでかい。女性の方はかつて札幌に住んだことがあると話してくれた。バスは熱帯のメコンデルタを走っていった。途中で物売りの男の子がサイゴンタイムスという週刊誌を売りに来た。「4ドルで買ってちょうだい。」としつこい。「今はベトナムdongしか持っていない。10,000ドンなら買ってもいいけど。」「だめだ、安すぎるよ。」「じゃ、20,000ドンならどう?」「わかった。」この雑誌は英語で書かれた雑誌で、ベトナムの経済や社会問題について書かれていた。どの国も、豊かな国をめざして、その時その時をみんなが一生懸命生きている。
ホーチミンシティでココナツジュースを飲んだり、アイスクリームを食べてゆっくり過ごす。物売りの子どもたちがやってきた。「絵はがきを買ってちょうだい。1ドルでかってちょうだい。」「それは高い。6,000ドンでないと買えない。」かれらは仕方なく6,000ドンで売ってくれた。
【国営デパート】2人の青年と仲良くなっておしゃべりをする。ベトナム語が通じないけれど、このやりとりを見て警備員のおじさんが笑ってみている。おじさんに荷物を預かってもらい、隣のコーヒー豆売り場で豆を買う。このデパートはアメリカンデパートとも言われているみたいだ。どっかの田舎のデパートにも劣るような小さなデパートだけど、ベトナム人からすればめずらしいものが売っている店なのだろうか。国営というところが日本にはない感覚だ。デパートを国が経営するとは。1階は電化製品、2階は衣類、3階は衣類と伝統工芸品売り場になっていた。6ドルでお茶の葉を入れる箱をお土産に買う。「大学の先生に贈るので包装してちょうだい。」と頼んだけれど、伝わらなかったのか、ピエロの絵がかかれた銀色の包装紙にラップされた。
【タンソンニャット国際空港】ファングラーオ通りで夕食を食べる。午前中にカント―から戻ってくるときにバスで一緒だったアメリカ人夫婦とバスの乗務員と偶然再会!「元気で。」と握手して別れる。両替所でおしゃべりをしたバイクドライバーと再会。「ああ、また会ったね。」「日本に帰る前に、またおれのバイクに乗ってほしい。」とうるさいので、空港まで4ドルで乗せてもらうことにした。いろいろ親切にしてくれたドライバーだけど、空港が近づくと「美人がたくさんいるところを知っているんだ。行かないか。」としきりに誘ってくる。「早めに空港に着かなければいけないからけっこうです。」と断る。ベトナム陸軍の前を通り過ぎ、電灯が整備された車線の広い道路に入り、空港に到着した。
トイレの手洗い場で顔を洗ったり歯を磨いたりする。到着ロビーは古い建物で、相変わらずタクシードライバーたちが到着した客をつかまえようとして呼び込む声でにぎやかだ。出発ロビーの方は最近できたのか近代的な建物だ。
23:30 ベトナム航空に搭乗。機内食が出てきた。こんな遅い時間にも機内食が出るんだ…。0:30 機内は睡眠時間のために暗くなった。2:50「みなさま、おはようございます。当機はまもなく関西国際空港に到着となりますので、朝食をお配りします。」時差があるから日本時間では4:50なのだ。
こうして、初めての海外旅行が終わった。
なぜ、初めての海外旅行がベトナムだったのか。
それは去年、沖縄に2回行ったけど、南国の雰囲気が好きだし、人々が三角のすげがさをかぶる雰囲気も好きだし、笑顔が多い国だと聞いたからだ。ベトナム戦争が終わってまだ20年だ。去年、ベトナムはアメリカとようやく仲直りした。ソ連の崩壊、東欧諸国の民主化が進み、社会主義国家ベトナムもドイモイ政策(市場開放政策)で西側諸国のような豊かさを目指している。今、最も熱い国だと注目されている。これまで、アメリカの映画でしたかベトナムを見たことがなかった。ベトナムの人々はまるで不気味な存在でゲリラ攻撃を仕掛けてくる人々というイメージがあった。
ベトナム戦争と言えば、有名な写真がある。沢田要一カメラマンが撮影した川を渡る母子の写真はピリッツアー賞を受賞し、自分も小さい頃から知っている。母が沢田さんの親戚の方と友達だったということもあって、小さいころから沢田さんのことは知っていた。
7日間の旅は強烈であった。ベトナム国民も勤勉で粘り強い。何といってもベトナム戦争ではアメリカを追い払ったのだから、強くて賢い国民が多いのだ。三角のすげがさをかぶった人の不気味な存在と思われていた人々は、太陽の光に照らされて、大自然の中で、人間として素直な感情を表現しながら明るく生きている。美しくもあり、醜くもある人間の姿があり、たくましく生きている。
