尻内町矢沢の歴史〔馬の歴史〕

 東北地方は古代から馬の産地です。『続日本記』養老2年(718年)の記事が初見とされています。当時、陸奥(むつ)と呼ばれていた青森地域には、すでに多くの馬が飼養されていたことが他の文献にも記述されています。

 

 この地域が馬産地として歩みだすのは、平安初期、朝廷が馬産の重要性を認めこの地域の産馬の持ち出しを禁じた頃からです。武士勢力が国内に現れ始めたのもこの時期からで源平盛衰記に記される寿永3年(1184年)の宇治川大合戦で活躍した2頭の南部馬によって、この地域の馬の優秀さは以後の武士たちに広まっていきました。

 

※宇治川の先陣争いで有名な「いけづき」「するすみ」の名馬は、青森県の七戸産と三戸産だという記述が南北朝時代に書かれた「源平盛衰記」にあるそうです。

 

 鎌倉幕府を築いた源頼朝も南部馬に大きな関心を持っていたひとりで、奥州藤原氏討伐後甲斐(山梨県)の南部光行を糠部(ぬかのぶ・八戸地域)に治めさせたのも、馬に精通していたからであったといいます。南部一族は、この光行から30年後の実光の時代、一戸・七戸・四戸・九戸の4地区にそれぞれ行朝・朝清・宗朝・行連の4兄弟を配して地方経営を行い、特に馬産に力を注ぎました。 これが現在の馬産の基盤になったといわれています。

引用:青森県軽種馬生産農業協同組合ホームページ  http://aba.main.jp/

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 このように、東北地方、特に青森県の南部地方は昔から馬の生産がさかんでした。農業において動力としても馬は必要でしたが、日清戦争・日露戦争のあたりは軍馬が必要でした。

 

引用:ホームページ「十和田市と馬の歴史」

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 馬渡家でもかつては馬を生産していました。青森県で最も優秀な馬を生産したということで表彰されたこともあります。馬にも歴史があり、父・母、祖父・祖母、曾祖父・曾祖母…というつながりがあります。

 

青森・馬渡又兵衛生産の馬
「第一善雅」Daiichi Zenga(JPN)
アングロアラブ種(70.3125%)
大正9年(1920年)生まれ 牝

父「オーバーヤン五ノ六」1908 
 → 祖父「O'BajaV」 1894 

  → 曾祖父「O'Bajan」1881 

  → 曾祖母「58Samhan」1881
 → 祖母「ガズラン一ノ五」

  → 曾祖父:血統不詳 

  → 曾祖母:血統不詳

母「善雅」1916  鹿毛
 → 祖父「ガロン」1909 

  → 曾祖父「Gallinule」1884 

  → 曾祖母「Flaira」1903
 → 祖母「第六ジエムマー」1909 

  → 曾祖父「第六アラデュ」1902 

  → 曾祖母「ジエムマー」1894
 

青森・馬渡又兵衛生産の馬

「新海」1929(昭和4年)

父「嘉栄」1924

→ 祖父「ガロン」1909

 → 曾祖父「Gallinule」1884

 → 曾祖母「Flair」1903

→ 祖母「コハイランエフ」1919

 → 曾祖父「コハイランラシード一ノ四」1909

 → 曾祖母「オーバーヤン五ノ七」1909

 

引用:凪的電脳賽馬ホームページ

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大正~昭和初期の産馬組合、歴代組合長の写真です。
馬渡又兵衛は5代組合長です。(昭和2~6年歴任)

 

 

副組合長の写真。親戚の夏堀源太郎さんの写真もありました。