歴史〔大仏の歴史〕

 八戸市尻内町大仏町内の歴史について、松橋金蔵(かねぞう)氏がノートにまとめました。そのノートをお借りし、このページで紹介させていただきます。

 

 古きを尋ね新しきを知ることは意義のあることを思います。

 或る日、産土様(うぶすなさま)のお神酒上げ(おみきあげ)の時に、戦後もしばらくの間、お神酒上げは年5回あった話を私がお話したら、何の為5回もあったのか、又どんな意味があったのかの話になり、其の訳を話したら、お前さんが亡くなれば知っている人が無くなるから何かの形で残してほしいと言われました。文章力のない私には少し重荷ですが、私にも其の気持ちはありました。お神酒上げの話だけでは物足りないので、昔からあるもので其の訳も経緯もわからない方々が多いではと思い、そういう事も取り入れましたので、読んでもえらえたら私の喜びでございます。

 産土(うぶすな)様(さま)(神明宮) どんな小さな部落でも、辺ぴな所に行ってもそこには住む者たちの心の拠り所として産土様があります。山の神、稲荷様、観音様、色々。そして、時々の節目に御縁日があり、祭り事があります。部落住民が氏子となり、尊崇して生活してきました。五穀豊穣を祈り、又日常の悩み苦しみに際しては祈願し、守り神として暮らしてきた長い長い歴史があります。今の様に医学が発達してなかった昔は大変な病気をしたり、大変な困り事が起きた時などは、お百度を踏むと言って神前から鳥居まで百辺も行き来して祈ったとか昔の話にあります。私が子供の頃から青年期にかけて、志那事変、第二次大戦の出征兵士が村から出た時は部落民全員老若男女、産土様に集まり、武運長久を祈願したのです。出征兵士の幟り旗を又手作りの日の丸の旗を持ち、神社から尻内駅まで見送りに行列をつくり、駅まで、駅前の広場では書く部落ごとに出征兵士を中に軍歌をうたって元気づけ、列車の発車時間まで見送りしたものです。

 大仏の産土様と櫛引八幡宮は広い意味では皆様の守護神として一番崇拝したのではないか、普段の生活の中で夢知らせも信じていました。牛の関わりの夢は神明様、馬の関わりの夢は八幡様の知らせ事と、事故や病気の災いのなきように参詣に行くのが通例だったようです。
 子供の養育にも神仏の恐れ尊ぶことを親達が教へました。悪い事をすれば神や仏が必ず見てる、それが子供心に信じられて、そんなことがブレーキに成って悪事が少なかったのです。
 今日ではそんな教育をする親は少なく、子の教育に取り入れなくなったのでは、小さい頃から子供の教えに取り入れるべきと思います。

 産土様の参詣は正月元旦の参詣だけでなく、月始めの一日が参詣日で、八幡様は15日のようですが、なかなか行かさないのが本音です。産土様のご祭日は9月1日、一番の祭日ながらお神酒上げの参加者が昔より少なくなってきたのが気がかりです。昔は一軒の家から必ず一人が参加し、女性も参加しました。

 

火祭り
 旧暦2月初めの午の日(初午)火難、災難の無い年でありますようにと、内神様、産土様にも、小豆まま、煮しめ、お神酒を供えました。神社には各自で酒のつまみ、煮しめなど持ち寄り食べ合います。火札(ヒマダ)は集まった各自に渡されました。櫛引八幡宮から区長(会長)に戴いてきたもの家の炉の上の自在金具に結ぶとか、炉端の薪入りの処の柱にはりました。

 其の外には部落用のもの幣束も何束かあり、其れは部落内の橋端の土に(竹にはさんだもの)差す、橋の安全、災難除けを願ったものです。5か所くらいに立てました。或るいは、火災と水とのかかわりから立てたものと思います。

其の年の月初めに初午の日があれば(暦で)其の年は火早い年だとか(火に気をつけねば)火事が出やすい年とかの目安にしました。ちなみに平成22年の初午の日が2月2日(月初め)で火早い年に当たりました。火祭りのお神酒上げをやらなくなっていました。2月14日、兼太郎宅が火災に遭いました。

其の二 農神様が来て雪神様の帰る日
3月16日、今日では雪が多いか少ないかは来たからの寒波次第、低気圧次第と皆が知っていますし、何か月も前から長期予報も出る時代ですが、昔は雪の多い少ないは今より大変大きな関わりがありました。其れは良い面、悪い面はありましたが、一番大事なことは春から夏の水不足に関係したからです。今のように揚水ポンプがあるわけではないのですから、昔は水不足に備えて、いたる処に溜池や堤がありました。旱魃が続けば堤も溜池も干上がり、どうしようもない時がありました。神社やお寺に集って雨乞い祈願もめずらしくなかったのです。野沢川(浅水川)西丹波水門(永福寺村)、姥水門(正法寺)又兵衛水門(張田の上)旱魃の時は夜昼水門守りが付いて水門を放されないようにしたのです。それでも水喧嘩が起こり、死人まで出た事があったそうです。そこでやはり頼みの綱は神仏でしかなかったのです。神職の宮司から百姓達何十何百人の一心の願がけに答えるごとく本当に雨が降る事もあったそうです。
こんなこともあったので、お神酒上げも笑い事ではなく当たり前の行事だったはずです。雪神に感謝お礼をして、内神様に供え手向けました。夕方近くには神社に集りお神酒上げ、オシトギ(米粉をこねて作る)を護符とし、少しずつ戴いて持ち帰りました。五穀の豊作を祈り、作付けを話し合い、種子籾の話、早生か晩稲(おくて)か、品種を話し合える情報の場でありました。例えば亀の尾は穂が長く粒数が多く、ところが丈が長く分けつが少ない、たおれやすい。陸羽135号は新種で穂が小さいが分けつが多く、多収穫、でも、イモチ病に弱いなど、話は尽きませんでした。

 


 其の三 虫追い祭り(むしぼいまつり)旧暦6月24日
 各家では小豆まま(赤飯)や、ハット(うどん)や餅撒きして内神に供え産土様や八幡様に手向けました。この虫追い祭りは通称ムシボイと言いました。ほかのお神酒上げと違って十時頃神社に集って神社前に一對下の鳥居の処に一對ずつ大幟を立てました。其の外に青色の小さな幟旗が何本かありました。それは、畑や田を巡り歩く時に持ち歩きました。又子供等は前日に作り置いた細長い旗を持ち寄りました。子供等が前日にも半紙で作り、半紙を縦2枚に切り、其の4枚を足して1本の旗にします。旗には五穀豊年悪虫退散祭敬白と書きました。其れを田の場所の分作りました。1か所に1本当てました。その半紙の旗を細竹に結いたものを神社に持ち寄り、大人達は家に在るお札、八幡様、神明様のもあれば、お山かけと言われる三山、羽黒山、月山、湯殿山等のお札もあり、田畑巡回前に神前で虫追いのお囃子をやり、太鼓、横笛、手平鉦を鳴らし、そうしてから外に出ました。神社の坂を下りて、部落を通り、坂道空洞坂(オトザカ)を登りながら、太鼓、手平鉦を打ち鳴らしながら坂の上に出て、神社から子供等がはしゃぎながら先頭を歩き、三森通りの小堤、山ノ木松(木賊沢:とくさざわ)、夏間木に下り、金田谷地、七崎田(ナラザキタ)、中沢、柳立、赤坂、四ツ神へと歩きました。

 高速道の関係で発掘したあたり、ここでは毎年一休みします。ここは杉の大木があり、見晴らしも良く、涼風があり、歩いて汗ばんだ体には本当に心地良かったのです。一休みして神社に戻り、お囃子道具、幟小旗を置き、一時解散、そして夕方にお神酒上げをします。大仏では昔からこんな言葉がありました。「話は24日に色々つもる話をためて置き、24日に吐き出す」これは庚申講との関わりからきています。虫追い行事も庚申講の行事が変化しました。庚申講の時は一晩中眠られないから話は切らされない、そのことから虫追え(話は24日に)に変化したと思われます。虫追いの神事は太鼓や鳴り物で追い払うのではなく、祈願の神事なのだろうと思います。

 実際は、害虫は色々ありますが、主なものは苗の時から発生する泥背い虫で、時々大発生してまたたく間に苗の葉を喰い荒らし、真っ白にしてしまう事がありました。早朝の霧があるうちに柄の長いホウキで拂い落としました。(薬防除などない時代。今は畑苗代で箱育苗中に防除薬散布で防ぐ)稲がある程度生長してから発生するのが二化めい虫、蛾によって産卵、稲の茎に年2回孵化した幼虫が稲の茎の中に食い込んで稲を枯らします。薬剤散布がないと今でも怖い虫です。今は害虫も怖いですが病害の方が怖いです。天候が悪く雨降りが続けば色んな病気が発生します。又虫も籾から入って食害を受けます。米に斑点が出来るカメ虫が最近発生してきました。

 


付記

三ヶ村(一日市、烏沢、櫛引)からの虫追い祭り 同じ日の24日の午後2~3時頃になると、三ヶ村合同の虫追(三ヶ村の場合は虫供養が大仏部落の入口の処の庚申塔に毎年来ます。其の時間頃になると男女子供等が集って来て、今や遅しと待っています。やがて狐ケ崎あたりのカーブから笛太鼓、手平鉦のお囃子が聞こえ、幟旗がはなやかに近づいて来ます。あゝ来た来たと子供等はしゃぎながら待っています。やがて、庚申塔の前に皆が揃い、烏沢、櫛引、一日市(ひといち)の人達が庚申塔の前に山膳こ(かりおぜん)を置き、供い物(赤飯、餅、煎餅、駄菓子類)を山盛りに供います。線香、ローソクを立て、烏沢、櫛引の和尚様2人が読経している間、他の大人の人達も合掌してから立ち去ります。やいなや子供等が一斉に供い物を我れ先に取り合いました。おとなしい自分から見ていると見苦しい顔をそ向けたくなったことが思い出されます。三ヶ村の人達は次第に遠ざかり、鮫の口、天神堂、一日市の方へお囃子の鳴り物の音も小さくなって見えなくなりました。


其の四 神社産土様御縁日 旧暦8月1日 最近新暦9月1日 今は第1日曜日
 旧暦8月1日は昔から神社の御縁日でした。それが時期的にも台風シーズン、二百十日で恐れられておりました。稲の開花期(今よりも1か月も遅かった)の一番大事な時期でした。稲の品種も農薬も栽培技術も進んでいなかった時代でしたから、唯一神に頼むしかなかったのです。だから、頼みの一日と言われました。稲にとって旱魃、冷たい東風(やませ)、長雨、台風、不良天気からの此の時期の天気次第で実の入りが決まるのだから、昔の程、死に生きが決まるので、大事な大事な時なのです。台風での稲の例伏、又イモチ病、早霜、今より1か月も遅れての栽培青立など昔は2,3年置きの不稔不作にどんなに百姓達が苦しみ、そして涙を流してきたことか。八戸地方は北東風(やませ)との長い長い苦しみの歴史があったのです。昭和に入ってからも、昭和9年、10年n冷害凶作で娼婦に身売りされた者が7,083人、昭和6年に比べて3倍にものぼったと記録にあります。娘一人10円で売られたそうです。小作百姓はそれこそ水飲み百姓は豊作であっても地主に生産物を半分又は其れ以上、五分五分で半分、4分6分の人達もあったようです。子供の6、7人は普通で、食ってゆくだけでやっとでした。少しの不作でもこたえたはずです。そこでどんなにか真剣に神を頼み、豊作を願ったのだろうと思います。一日の御縁日には山止め(部落中仕事休み)のしきたりがずうっと続いたものです。そして、餅搗き、赤飯、煮しめ、刺身、其の他、内神様、八幡様、農神様、恵比須様、大黒様にも手向け、供いて豊作を願いました。(家の中の神棚に)

 青年団では神社の敷地で演芸会の準備に忙しく、舞台用の杉ざお集め、板集め、舞台作り用〇玉、屋根のテント廻り用の幕等、電気電燈の配線、やっと舞台が出来上がり、夜には演芸会が始まります。隣の村々から若者達が集まりました。村の消防が何人か出て、警戒に当たってくれました。親父達は神社や廻りを掃除したり、幟り立て、神社前に一對下の鳥居の所に一對、夕方からはお神酒上げ。神前にはお酒、米シトギ供い、各自持ち寄った煮しめや煎餅を供い、て、少しおさげして、自分のおつまみに。お神酒でご気げんになって演芸会場に下りて来て、お花を上げたりします。青年団達はお花披露半紙に墨書きして舞台につり下げて、舞台には踊りなど、時にはお芝居をやる事もありました。

 

其の五 農神が帰り雪神が来る日 旧暦10月16日 新暦11月20日すぎ
 1年最後のお神酒上げの日。農神に感謝とお礼、雪神にお願いの日。今の時代なら自然に感謝と良い環境を喜ぶ、ということでしょうか。農作物もお陰様で病害にも負けず、順調でありがとうございます、の心で、家ではナベコダンゴや米シトギを神前に、神棚に上げ供い、農神様、雪神様、産土様に手向け、お礼を言います。清酒、新米をお供いして、其れを後で小分けしたものを持ち帰って護符に戴きました。この頃、平成の代は餅搗きもしない家庭が多くなり、食べるのも昔ほど食べなくなりました。だから、買った餅で済ますのではないか、まして米シトギなどはめったに作らなくなったのではないかと思います。昭和年代には時々の節目に主に神様に供いる為に作りました。前日に粳米(うるちまい)をといで水に浸して、その後ザルに上げ、水切りして、水切りが出来たら臼に入れて杵で搗き(つき)、そして目のこまいトシでおろし、粒子のない米粉にします。その粉に水を少したらし、砂糖をくわえてこねた全量をおしとぎ。又丸めて指でついて、へその穴みたいにしたのを小豆汁に入れたのがナベコ団子。昔は時々の節目に作って神仏に供へました。

 

神社下中段の敷地
 現在は神社の後ろも廻りも平ですし、毎年町内総出の草刈りで綺麗になりました。又神社下中段部分にも平な少し細長い部分があります。昔は神社の前庭の部分だけの平な処がなく後ろ部分1~2mくらいから高く、笹薮、神社に向かって左は縁側と崖の間は人1人通り抜けできるぐらいしかあきがなく、崖は3m以上も高さがありました。其の高さ部分に4~5畝の畑があり、その畑の脇の部分が又高く(あとで今さんがコンクリ階段を作った)その高い部分に松の木が3本程度あり、上下全体は大きな木は無く、大木は樅(もみ)の木と公孫樹、ほかは神社の脇の崖の部分に広葉樹2本ほどあったので、非常に見晴らしがよかったのです。下の方の杉はまだ小さく、高い処からは180度見晴らしがききました。
 余談になりますが、昭和10年頃、一番高くなっている部分で平になっている処を掘ってみた時がありました。なぜかと言ふと、そこでとび跳ねると足元でトントンと音がしたもんだったからです。そこで、何かがあると掘ってみた時があったのです。掘って出てきたものは、今そこに立っている真っ黒いあの石、其の石に何か字のようなものが見えると言ふので見ても、誰も読めなく、そこで三条小の松本先生に来てもらって見てもらっても読めなかったとか。
 其の下の方の小さな畑の持ち主は、矢沢の松倉寅平さんでした。麦とか大豆を作ってゐました。物の運搬は馬の背でした。平成の代になって持ち主は整地業の今末五郎さん。今さんは2屯トラックで土を運びだしてから今の地形に変わりました。
 又神社の下の中段平な部分は矢沢の馬渡専太郎さんから大仏の青年団(団長松本喜一郎)の団結と働きで田作り、米作りから得たものです。其の場所の整地もリヤカーなど土を運んだりスコップで土を投げなど、男女共何日も出てよくやりました。もとはと言えば大仏の神社には何をやりたくても、さからしたくも平で少し広い敷地がなかったのです。どこの村にも広場があり、盆踊りでも演芸会でも神社の敷地でやっていることが多いです。大仏でも平な敷地がほしかったのです。其れまでは、大仏では家の庭の広い処を借りてやっていたのです。そこで神社下の敷地がほしいと思っていたのです。矢沢の地主さんへ、部落の代表とか青年団長等でお願いに行きました。神社をもっと盛らしたいから譲ってくださいと頼んだら、神様を盛らしたいと言うなら譲ってもよいということに成ったそうです。其の頃、大戦中、米の増産時代でもあり、西沢の田を耕作しようとなりました。2反歩弱ですが水不足がひどく、余されている田なので、作るとなれば何から何まで大変なことは誰にでもわかっているはずですが、今にして思っても、若者の元気だけで田作り、稲作りをしたようなものです。人力での、トガでの田打ちから(耕起)雨降りを待っての代出し(鍬で水と土をこねる)、足で土の固まりをつぶしなど、人力だけで土をドロドロに耕すことは大変なことでした。
 田植え 苗は方々からのもら苗。田の水は順番ですが、雨待ち状態など。我が家では3人も青年団にとられるので、家の方も大変でした。親父が怒るのもよくわかるのですが、よくやったもんです。色んな苦労で。何とか稲が作れて、その米のおかげで、あの土地が部落のものになったのです。今は神社の後ろの部分も整地ができたので、何をやるにしても不自由はなくなりました。


庚申塔のこと
 大仏部落の矢沢からの入口の処に、自然石の真っ黒い石に庚申と掘られた石塔というか石碑というかが立っているのは、部落の人なら誰でも見て知っているでせう。しかし、どうして在るのか、どういう意味があるのかまでは、今日ではあまり知られていないのではないでしょうか。
 中国の神様の道教が日本に入って来てから庚申信仰も入って来て、日本の北の果てまで広がったには驚きです。年代は宝暦年間、1751年から天保年間、1830年です。
関東はこれより100年早いと言います。江戸時代中期頃が盛んだったようです。地域地域で庚申講(会)を作り、講頭は当番制にしたようです。庚申の日は年5回ないし年6回、61日に1回廻ってくると言います。人間の体には上尸(じょうし)、中尸(ちゅうし)、下尸(かし)の3尸と言う目に見えない虫が居て、庚申の日は人間が眠っているうちに体から出て、天に居る神に、人の悪い事を告げ口する、そうすれば長生きできない、と言います。そこで、其の晩は眠らずに一晩中語り明かすのだそうです。庚申講の当番に当たった家に集り、それを順番にやったそうです。
庚申塔にお供い物をして、拝み酒を飲み交わして一晩中語り明かす、眠られない為に、話は庚申の日に、と言ったそうです。話は途切れれば眠くなるので、一晩中次から次から面白い話、興味のある話をして、眠らない夜を過ごしたそうです。忙しい夏の夜も、寒い冬の日も、何年何十年もやれた事に驚きます。又地域によっては百万遍の数珠廻しをやった所もあったそうです。庚申講からの言葉で虫の知らせ、腹の虫が治まらない、虫が好かない等の言葉が現在も使われています。人の腹の虫から次第に時代ややり方が変わり、作物に付く食い荒らす虫になり、虫追い行事に、又変わって虫の供養等、そして話は庚申ではなく虫追いの日の24日と変わったのです。

10干 甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸

12支 子 丑 寅 卯 辰 己 午 未 申 酉 戌 亥

ちなみに、七福神の中に道教の神が三尊入っています。(布袋尊、福禄寿、寿老人)これを見ても、日本中に中国の道教が浸透し、北の果てまで広がったのに驚きます。日月の印が彫られているのは天の神を庚申の日に祀ることを意味しています。(庚申のことは滝尻先生の「碑は語る」から借用)


大仏の十和田様のこと
 坂道の中程、中沢道への分岐点の突出したところの上に墓石形の石が十和田様であり、青龍大権現と正面に彫られています。時は安政7年甲年1860年とあります。何であそこに、何の為に建てたのだろう。今から150年以上前になりますが、十和田様の信仰が流行して各方面からの参詣人が多くて宿るところもない程でした。どこの部落でも信仰者達が講を作り、毎年変わり番に参詣に行く者には、わらじ銭と言って、講員の者達が少しのお金を出し合って十和田様信仰を助け合っていました。そのうち遠く十和田まで行くのに悪天候もあったり、道も悪かったり、それで十和田の現地に行かずに済むように、大仏の坂の中腹に石を建て分霊入魂して、大仏内で何時でも拝むことが出来るようになりました。又部落の一方の入口に建てて、悪い病からも守って戴く為もあったと思います。本来は十和田青龍権現は龍神(水神)であり、水辺や流れのそばに祀るのが本当でありますが、大仏には水に関わりがないようです。そもそも権現とは神か仏か、広辞苑には仏菩薩が衆生を救う為に種々の姿をとり権に現れることとあります。十和田湖の昔話にも諸国修行の南祖坊が十和田湖に巡り来て十和田湖の主に成った話からもうなづけます。

 もう一つ右側にある丸みの形の黒っぽい天然石があります。年代は十和田様より4年後の建立のようです。金毘羅大権現と言い全国的に知られます。四国の讃岐の金毘羅様が其の当時でもこの日他の端の此の地にまで有名だったんだなあと思われます。それこそ、あの遠い四国までも参詣に行き、しかも分霊入魂に携わった奇特な人物が居たのです。その由来、謂れも石には彫り込まれていないのが残念です。但し、よく見れば、矢沢亦兵衛、張田市助は上長きっての地主達です。1番施主の大塚屋左吉様は八戸藩時代の大商人豪商の一人であったかと思います。八戸藩で元金収入の為に百姓達に大豆づくりを強く勧め、買い上げ、それを豪商の人達が500石船、千石船に積んで江戸、大坂、其の他へ送り商いをしました。そういう関係で、大地主達と大塚屋が大豆の買い集めに繋がりが出来て、そんなことが縁で金毘羅大権現の祀りの実現になったものと思います。四国讃岐の金毘羅様は高台にあり、石段の772段もありますが、それにちなみ大仏の坂道の高い処に祀ったのではないかと思います。ところが旧暦にしても8月10日はまだ暑い時期、どこからどうして運んで来たものか、石の質から言って山地の石ではなく、あきらかに海辺の石と思います。まさか四国からではなかろうが鮫の海辺からかも知れないが、それにしておあつかいにくい丸味の石、重さも半端でないし、3~4人で持てる石ではないです。モッコに入れてかつぐにしても4~5人で出来るものでしょうか。150年の昔に馬車などあったろうか。運んで来てあそこの高台に上げて据え付けるのに何人、何十人がかりで出来たものか、kの金毘羅大権現には、なぞの部分がたくさんあります。

 年代が庚申塔1830年、十和田様1860年、金毘羅大権現1864年で、十和田様と金毘羅様とは4年しかちがわず、当時の人達は信仰深いことがわかります。当時は、大仏部落は何軒で何人の人口があっただろうか、と思いは巡ります。


 付記 青龍大権現の話 十和田湖の主になった南祖坊
 平安の都(京都)49代光仁天皇770年の時代に、二条関白太政大臣藤原有卿是実公が因幡守平秋朝の讒言にあった奥州の地に流罪になりました。藤原一族が重く用いられていたのを妬み、罪に落とし入れたのです。伊勢湾から父子主従38人が長い月日が重ねた後、奥州の気仙にたどり着きました。其のうち、生活の道も立たなくなって主従は散り散りとなりました。是実公の子、是行は糠部郡に出て宮古に住居を定めようと尋ね来ると、宮古とは名ばかりで、山は鹿や猿、猪の棲家で平地と言えば葦の茂った谷地ばかり。落胆して浜伝いに久慈から種市あたりに住居を定めました。或る夜、霊夢をみて、ここから西へ向かって行けば観音堂がある、十一面観音菩薩を奉ってある、それを大切に祀れと言います。西へ西へと行きました。行く途中に乗った馬が沼に落ち、色々な出来事などがあり(伝説を省く)、行き着いた所が今の南部町斗賀の涼現堂でした。そして、此のあたりで暮らしました。しかし、何年かしても是行には子が出来ませんでした。そこで、女房がお堂に籠って子さずかりの願掛けをしました。21日の満願の夜、白蛇が懐に入った夢を見て、それから妊娠をして、玉のような男の子を産みました。そして、南蔵と名を付けました。年々育ちもよく、人並み以上に丈夫で大きく育っていきました。6つ、7つ頃から学問もさせました。それが一を聞いて十を知る程にすぐれてゐたそうです。そこで、一山越えた北の方の七崎に永福寺というお寺があり、そこの住職が近代の名僧と言われていたので、、7才の時に弟子にして学問やお経を教えました。教文も次々と覚えが早く、其の内、住職が教えるものがなくなる程でした。そこで、十三方で諸国巡りの修行に出ました。全国行脚し、巡り巡って紀州和歌山の熊野参詣も70過ぎまでして、三十三回目にしてそこで17日の通夜をすると、白髪の老人が現れ、お前の孝心と修行に感ずるところがある、この草鞋の緒の切れる処、この錫杖の重くなるところを住みかにせよ、と教えられました。国中の高山獄峯を巡り歩きました。生まれ育った奥州の地、十和田湖に来た時、鉄の草鞋の緒が切れ、錫杖も急に重くなりました。ここが我が住む処と切り拓かうとすると、前から住み着いていたのが八ノ太郎という龍力を持った巨人で、怒って闘争となりましたが、長い間の修行で得た法力には敵わず血を吐いて十和田湖を赤く染めて、秋田の湖に逃げました。そして、そこの主となって住み着いたので八郎潟と言われるように成りました。
 有家卿達がしばらく住みついていたところに、有家という地名があります。岩手県九戸郡中野村字有家(洋野町)そこには有家神社(小さな祠)で、碑があるだけと言います。豊崎永福寺町瑞豊館の上手、久保杉と滝谷の間、浅水川ぞいに南祖坊というかなり広い長い地域があるのも、昔その関わりの名残かもしれません。田んぼの地域にふさわしくない地名だなあと思いました。

 

今は変わってしまった空洞坂と大仏
 昔から戦後の頃まで、橋端から十和田様の辺りまでの道路を空洞坂(オドザカ)と言っていました。その通り、道路の脇が崖で、山本博美さんの所から弘樹さん、そして十和田様まで高い所では8,9mもあり、そして欅や栗の大木があり、反對側前側はあまり高くなかったのですが、今の墓地辺りはだいぶ高かったです。久治屋(松橋照雄宅)と其の上の山本さん宅は高くなかったのですが、欅の大木があり、夏なら葉が茂れば昼でも少し暗いほどでした。今の墓地の処は山林でした。夏に木の葉が茂ればトンネル、それこそ空洞でした。戦後になってから土砂取りして地形が一変してしまいました。今の一等地敷地は戦後。今整地工業(今末五郎)が土砂を取り、運び出し、特に弘樹さん、山本博美さん(さんぐぢ、松橋勲さん)永松(ひろしさん)加々美さん。旧墓地、山本勘ノ亟さんの上部分。舘の神社上など、昔高台の屋敷地は一変し、一等屋敷地に変わりました。今整地工業さんのお蔭様です。

松橋金蔵氏ノートより