尻内町矢沢の歴史〔4〕

《明治時代のはじめ》

『国誌』より(初版は慶応3年/1867年)

 矢沢村の戸数は42戸です。人々は平地で暮らし、商工もあります。北海道に渡る人もいました。田は多いけれども土地は良くなく、収穫量も少ないので畑で麦を育てるのがよいだろう、とあります。花崎村は耕地のみで住む人はいませんでした。矢沢の住民が花崎村の田畑を耕していました。そこで、矢沢村は花崎村の支村となりました。その花崎村も、明治6年(1873年)には大佛村となりました。

 

 根市村は田畑があるけれど人家はなく、いつの頃からか離散して遺跡のみ残っています。明治24年(1891年)鉄道の尻内駅開業時、家数は1軒、人口9名でした。

 

 根岸村の明治初年の戸数は、三条目11戸、張田41戸、正法寺48戸、洞6戸です。

 

 下の表は『天保郷帳』と『旧高旧領』の比較です。江戸時代前期の元禄や正保の記録では、大佛に七崎も含まれていましたが、ここでは含まれているかどうかわかりません。大佛村の収穫量が減り、根岸村の収穫が多いです。

 

『天保郷帳 』(天保5年/1834年)より

大佛村504石 矢沢村322石 花崎村196石

根市村118石 根岸村(?)

 

『旧高旧領 』(明治4年/1871年)より

大沸村281石  矢沢村(?) 花崎村196石

根市村165石 根岸村581石

 

『共武政表』 明治12年(1879年)より

人口が多いのは根岸本村と大佛(矢沢)です。

矢沢に人力車6とあるのがどういうことか興味深いです。

 

大佛 戸数21 人口154名 牛5 馬36

大佛(矢沢) 戸数46 人口369名 牛4 馬79 人力車の数6

大佛・矢沢の 物産 米、麦、雑穀、麻糸、鳥類。

根岸本村 戸数50 人口553名 牛16 馬67

根岸(張田) 戸数42 人口330名 牛21 馬101

根岸(笹ノ沢)戸数18 人口143名 牛1 馬35

根岸(本村・張田・笹ノ沢)の物産 米、麦、雑穀、酒、麻糸、鳥類。

 

《明治時代の中ごろ》  

 明治22年(1889年)上長苗代村が誕生しました。尻内村、根岸村、大佛村、花崎村、根市村が合併して成立しました。『微発物件一覧』によると、明治24年(1891年)の上長苗代村の戸数は305戸、人口2222名、学校の数は3校、水車場4、船7です。明治24年は鉄道が開通して尻内駅(のちの八戸駅)が開業し、明治27年(1894年)には青森線支線(のちの八戸線)も開通して、現在の尻内町矢沢、根市、三条目に暮らす人々の生活も大きく変わったことが想像させられます。

 

《三条小学校の誕生》

 明治9年(1876年 )、花崎小学、三条目小学、根市小学が創立

 明治28年(1895年)、三校が合併し、現在地に三条尋常小学校が創立

 

《大正2~3年の凶作》
 大正3年(1914年)、東京日日新聞特派員が南部地方を視察し、凶作の様子を伝えました。米がとれず、海では不漁が続き、八戸町を中心に、鮫、小中野、上長苗代、下長苗代、市川、五戸、三戸などでは、人々が食べるものに困る状態でした。見るにもしのびがたい惨状でした。尻内の部落において作られた松皮餅を見て、とても食べられるものではないと思われましたが、これを食べなければ生きていけないのです。失明してぼさぼさの髪で垢まみれの老人が縄をない、やはり松の皮を水に浸して食べていました。米の作付が6583町歩で平年ならば84,650石の収穫あるべきところ、昨年はわずかに8,000石しかとれず、平年に比べると90%も減っているのです。28,870人の窮民が出ました。わずかに収穫した8,000石の米は、その質が極めて粗悪で、値段をつけて売れるものではありません。海岸地方にあっては、近年めったにない不漁で、この影響はまず金融に及び、公課金の不納となり、出稼人の増加となり、商況の不振となり、しばらく有らゆる方面に及びました。しかも、細民が、前途の痛苦を悲観して自暴自棄となり、餓死するよりは寧ろ一家で自ら命をたとうとする恐れがある状況でした。
 汽車が尻内駅に着いた時に来て農民の窮状を説明したのは八戸キリスト教青年会の武藤一明氏でした。そのあと、北海道の視察を終え、青森県に入ると八戸聖公会の松下一郎氏が列車内に来訪し、熱心に救済が急ぎ必要なことを陳情しました。八戸においては、日本メソジスト協会三上豊氏、聖公会松下一郎氏、浸礼教会浅原慈朗氏、基督教青年会武藤一明氏が早くも凶歉救済会事務所をメソジスト教会内に設け、すばやく行動に移し、外国の新聞の力をかり義捐金品を募集し、これを配分して飢餓に瀕せる者を救済しました。病者に対しては施療の手続をし、外米を購入しては実費販売をし、手の届く限りの救済に尽くしました。

参考:角川地名辞典
参考:『津軽・南部・下北の飢餓供養塔』関根達人氏
参考:神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・東京日日新聞
特派員門田勝衛氏の記事より《明治時代》

 

《産馬組合》

 大正から昭和初期にかけての産馬組合についての冊子より、歴代の組合長や副組合長の写真を見つけました。一番右下がうちの先祖である「馬渡又兵衛(久平)」です。昭和2年から昭和6年まで産馬組合の組合長を務めました。

 

右下は副組合長の夏堀源太郎さんです。うちの馬渡家とは親戚でもあります。