尻内町矢沢の歴史 〔1〕

《平安時代・鎌倉時代》

 尻内はアイヌ語で「シリナイ」と読み、「ナイ」は沼地という意味があります。鴨井池などを中心に一大沼地であったことを示しています。

 

 かつて、矢沢は「八沢」と書いていたようです。矢沢から大仏にいたる道に庚申塔があり、八沢村と書かれています。この庚申塔は、弘仁年間(810~823年)に、この地に布教のためにきていた弘法大師が、この地で疫病が蔓延して多数の死者が出た際にこしらえたものと言われています。(この頃の弘法大師は嵯峨天皇のもとで文章作成の仕事や高野山の創始、京の東寺の運営に忙しく、実際に全国各地を歩いたのは弟子や遊行僧であると思いますが…。)

 

 花崎甚左衛門が矢沢に館を構えたのは鎌倉時代のはじめ、1190年代と言われます。奥州藤原氏が源頼朝にほろぼされた際、一族郎党のうち十数人はひそかに源義経への忠誠を誓い、各地へ散りました。その一人が花崎甚左衛門だといわれます。

 

「ナニャドヤラ」の歌は源義経を慕う歌だとも言われます。源頼朝政権下にあってはっきりとして言葉に出せない思い、「なにを一体どうしたらよいか、これから先どうして生きていこうか、ああなんと悲しいことなのだ…」という嘆き悲しみを表しているといいます。

 

 尻内には千葉八幡宮があり、源義経の主従十三騎が七戸城に逃げましたが、千葉という名の家来は負傷がはげしく、とうてい逃げられそうもないので義経と別れ、この地で自害したといいます。千葉氏を祀ったのが千葉八幡宮だそうです。

 

 奥州平定の任にあたった大仏修理守(おさらぎ・しゅりのかみ)がこの地に城を築きました。。大仏氏が治めた領地は花崎、豊崎の両観音を基点として広範囲におよびました。しかし、奥州平定の任はやがて甲州からやってきた南部氏に移っていきました。

 参考:三条小学校創立100周年記念誌

 

 

 鎌倉幕府は、戦のために良い馬を必要としたので、名馬の産地糖部(現在の青森県南地方~岩手県北地方)をみのがすはずがありません。そこで、馬を育てる経験が豊かな甲斐の南部氏や伊豆の工藤氏を地頭代として糠部へ送ったのです。~工藤氏の一族では、横溝新五郎入道、大瀬次郎、合田四郎三郎が三戸に、工藤右近将監、横溝弥五郎入道が七戸に来ています。尻内には、工藤左衛門次郎、八戸には工藤三郎兵衛が来ています。『青森県の歴史』青森県小学校教育研究会社会科研究部会編著より抜粋