尻内町矢沢の歴史 〔2〕

《室町時代・安土桃山時代
 中世の時代、現在の大仏神社がある場所に大佛館(別名尻内館)があり、大仏氏(おさらぎし)が住んでいて、そのあたりの地名も大佛になったと考えられています。しかし、建武元年(1334年)の書状では、工藤左衛門次郎の名があり、そのころは工藤氏が大佛館に住んでいたと思われます。

 

 櫛引八幡宮の経櫃銘に、応永24年(1417年)大檀那菊池武義の名と五戸羽禰崎初百内福王寺とあり、室町時代には花崎村(浅水川下流の右岸)は「羽禰崎」と記されていたと思われます。また、永正年間(1504年~1521年)の糠部九箇郡馬焼印図にも「はねさき」の文字があり、牧野があったことがわかります。

 

 櫛引弥六郎の一族は花崎村に館を構える花崎氏を攻めたことがあります。なかなかの激戦で、馬淵川畔に陣を敷いた櫛引氏自慢の強弓隊により、花崎氏の兵たちは悩んだそうです。その矢は現在の矢沢にバラバラと降り注いできたことから「矢沢」の地名なったそうです。

 

 永禄10年(1567年)に、矢沢村を支配していた櫛引氏や根岸村(正法寺・張田・洞・熊沢)を支配していた東政勝氏は根城南部氏を攻撃しました。しかし、4年後の元亀2年(1571年)に報復を受け、根城南部氏の領土となりました。大佛館には中館宮内少輔政直氏が配されたようです。

 

参考:角川地名辞典

 

野沢川(浅水川)水系と開発
 三戸南部初代南部三郎光行が甲斐の国(山梨県南部)からやって来たのは建久3年(1191年)と伝えられてゐます。領地を拝領した文治5年から2年後のこと、馬淵川を逆上し、三戸相内観音堂に泊まられたことがそもそもの始まりです。陸奥の国は未開地、開発の第一歩に側近を従え、巡検を行いました。野沢川水系の巡検の時、七崎観音堂に立ち寄ったと言われます。永久元年(1219年)当地方を統治するにあたり、当時甲斐の国波木井から同行してきた津嶋平次郎の弟弥三郎を七崎地方の開発采領を命じ、奉行させたと七崎観音由来記に書いてあるそうです。水田開発を盛んに行うために領地統治と共に地域開発を進めるために南部氏一族を要所に配置し、各地に館持ち主として側近の中から39名が選抜され、各地の指導者として派遣されました。そのほかの豪族たちは家臣としての待遇を受けることになりました。



 野沢川水系開発采領4名
 浅水館 南左馬之介氏 浅水水門

 野沢川の開発は上流から次第に下流へと進んできました。野沢川の上流の浅水川舘主南左馬之介氏が浅水野沢地域内を支配していたと思われます。年代は不明ですが七崎を承久元年(1219年)に津嶋弥三郎が統治するにあたり地域開発を命じ、奉行させたとなっているのです。南左馬之介氏もこの年代に浅水舘主として浅水、野沢地域の水田開発の采領者として三戸南部氏から命じられた人だと思います。浅水水門は堰口から浅水、扇田、岩ノ脇、豊間内に9キロを越える用水路として築造され、百四、五十町歩に渡っていました。




七崎奉行 津嶋氏 岩ノ脇水門
 豊崎地区を藩政時代は七崎地方と呼んでいました。滝谷、上七崎、根岸、永福寺、夏間木、この地区の当時を知る奉行として命じられた人が甲斐の国から三戸城に移る時家臣団の一人として同行した人であります。津嶋氏の先代が岩脇に水門を造り、滝谷、上七崎、下七崎、根市、永福寺、夏間木、正法寺前を通って境田の渡の葉の橋まで延長9キロ以上にわたり、用水路を造っています。水門と堰は津嶋の先代が治水工事の指導者であったことを証明しています。



櫛引舘 櫛引河内 西丹波横手水門
 櫛引河内が舘主としてこの地方を統治していました。当時七崎村の一部、正法寺。大仏。花崎。根市。矢沢。一日市の平坦な地域に野沢川を利用して水田開発を立案、野沢川の七崎に西丹波の前身、丹波横手水門を造って七崎から一日市まで堰を通して約8キロに至る長堰の治水工事の采領者滝衛太氏があたりました。その滝衛太氏は都からの落人だったと言われていました。貴重な土木の技術者だったのだろうと思われます。そして、この地域内の百姓達からの年貢の上納高は二千石でした。南部領内の舘主としては中堅クラスの石高であります。

 

参考:松橋金蔵氏ノート



佐賀県近世史料第一編第二巻 勝茂公譜考補二

 京都伏見城攻め(西暦1600年)関ヶ原の前哨戦とも言える戦いの記述があります。

「~その他、堀江五右衛門、城中で働き深手を負い、仁戸田與右衛門、石垣に上がり敵の旗を奪取。馬渡又兵衛、太鼓櫓の下にて上林竹庵を討取り、小柳清右衛門も分捕いたし、綾部太兵衛、澤野八兵衛、大塚勝右衛門、成富仁右衛門、大村三郎兵衛、石尾安兵衛、綾部兵五郎、西村平兵衛、百武源五郎、五郎川杢左衛門、高木権兵衛、納富千兵衛、甲斐弥左衛門、大木権之丞、水町正五郎、葉次郎右衛門、藤山久大夫、石井仁右衛門など、おのおの進み戦い、或は傷を負い、或は分捕りした。
 毛利・島津・筑前の諸手も大いに挑み戦い、小早川秀秋の手勢より火矢を放ち、伏見城天守を焼き崩した。これにより城中の諸将、鳥居元忠をはじめ、松平主殿助、松平五郎左衛門、内藤弥次右衛門、内藤小次郎以下、みな城を出て激しく防戦する所に、鍋島の手勢、金丸孫七が火矢を放ち本丸を焼き立て、城兵の防戦もすべを失い、西の丸に引き籠って行った。この時諸手、西の丸へ押し寄せ、ひと押しに攻める。これにて、鳥居元忠は、大坂勢の内、鈴木孫三に討たれ、松平主殿助は島津の家来、別所某に首を授け、その他士卒、800余人討死して、城は落去した。
 この伏見城攻めでの龍造寺・鍋島勢が挙げた首級は100余であった。されば、故・関白(秀吉)殿下が心を留め造り磨かれた天守櫓、月見櫓、太鼓櫓、松ノ丸、一時の灰燼となりしこそ、あさましき事であった。

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