馬渡家について
青森県八戸市尻内町には馬渡の姓を名乗る一族が住んでいます。聞くところによれば、九州地方と青森県八戸市尻内町に馬渡の姓が多いとのことです。令和2年(2020年)、過去帳、位牌、戒名札を基にして馬渡家の家系図を作成してみました。江戸時代のご先祖様が死去した年月日は記録として残っていますが、生年の記録はわからないものが多いです。しかし、生年がわかっているご先祖様とのつながりを考え、推定ではありますが家系図を作ってみました。江戸時代当時の男性が20歳、女性が18歳くらいで結婚して第1子をもうけたと仮定しています。当家の菩提寺である凉雲院は過去に火災に見舞われ、人別帳や過去帳も焼失しました。後に檀家に残っている記録を集め、苦労して再作成されたものということです。こちらも参考にしました。
馬渡家のルーツは不明です。過去帳では唯心院萬山一法居士(元文2年/1737年死去)と妻である榮昌院喜法貞観大姉(安永5年/1776年死去、96歳)よりも前の記録はありません。また、それより以前の墓石もありません。(ちなみに、江戸時代よりも前の一般庶民の墓は、山の中や村の外れに埋葬して石を乗せた程度のものであり、一般庶民が名前を石に刻む墓が作られるのは江戸時代になってからのことです。)過去帳と墓石から分かるご先祖様の初代はこの2名となります。当家が、なぜ大佛村の山林や矢沢村の一帯に広い土地を所有する地主となったのか、今となってはわかりません。
考えられる可能性の1つ目としては、何かの戦いで功績を残し、恩賞として土地を与えらえれたのではないかというものです。当家の倉に、「よろい・かぶと」が保管されていたと聞いています。残念ながらいつの頃からか紛失したそうです。記録に残る戦いとしては、室町時代の終わり頃から安土桃山時代にかけてこの地を支配していた櫛引氏が根城南部氏を攻撃し、報復されて根城南部氏の領土となった戦いがあります。しかし、この戦いの詳細はよくわかりません。言い伝えでは、「かつて、この村で戦いがあり、矢がたくさん沢に落ちてきた場所だ、もともと八沢と書いていたが、いつしか矢沢になった。」ということです。農民であっても戦があれば兵として駆り出されたことは想像できます。馬渡家が武士であったか、農民であったかはわかりませんが、その当時、ここに住んでいたのであれば、この戦いに関わった可能性はあります。
2つ目の可能性としては、もともと馬渡一族は農民であり、土地の開墾に成功したというものです。寛文5年(1665年)にこの地は盛岡藩から八戸藩になったとのことですが、そのころを境に村の田畑が荒れるようになったそうです。そこで八戸藩によってこの地域の荒地開墾が許されたそうです。年代的には当家の初代馬渡〇〇(唯心院萬山一法居士)が生きていた時代と重なります。明治時代になってから、戸籍において、当家は「平民」と記載されていることから、長い間、武士の身分ではなく農民の身分であったことがわかります。開墾に成功と簡単に言っても、どうすれば広大な田畑や山林などの土地を所有できるようになったのか、具体的な経緯はわかりません。また、江戸時代においては農民は苗字を与えられませんが、馬渡の姓を名乗っていたことは、普通の農民ではないことがわかります。さらに、時々南部藩の殿様が足を運んで将棋を打っていたという言い伝えもあるのです。
3つ目の可能性としては、九州地方の馬渡家とのつながりです。当家は家督相続したものが代々「又兵衛」という名前を襲名しています。関ヶ原の合戦の年(1600年)に、佐賀藩主鍋島氏の家来である馬渡「又兵衛」が京都伏見を攻略したという話があります。遠く離れた地の馬渡又兵衛と当家の馬渡又兵衛は、つながりがあるのでしょうか。関ヶ原の合戦で佐賀藩主の鍋島氏は西軍として参加しましたが、直後に江上八院の戦いで九州勢の立花氏と戦ったことで徳川家康から許してもらい、佐賀藩を治めていくことになります。馬渡一族も鍋島氏の家来として佐賀で活躍していくのですが、馬渡「又兵衛」の名前は、1592年の秀吉による朝鮮出兵、1600年の江上八院の戦い、1637年の島原の乱の文献にも登場します。さらに、正保年間や嘉永年間の石高を記録した文献にも馬渡「又兵衛」の名前と50石という記述が見られます。幕末の戊辰戦争にも馬渡「又兵衛」の名前があります。このことから、佐賀の方でも代々「又兵衛」の名前を襲名していたことがわかります。
親戚の佐々木さんの話では、馬渡家のルーツについての言い伝えがあるそうです。それは、佐賀県の馬渡島がルーツというものです。馬渡島では軍馬が育てられていたそうですが、馬渡又兵衛という人が馬を38頭つれて、この地域に50人ほどで住みついたというのです。これを証明する書類等は今のところ見当たりませんが、元々馬の生産が盛んなこの南部の地を選んで移住した可能性はあります。江戸時代は航路も発達したので、馬を船に乗せて移住した可能性も考えられることです。実際、当家も馬の生産をして、大正や昭和時代になっても優秀な馬を生産したということで数々の表彰を受けています。
また、1642年以降、佐賀では飢饉や洪水などの災害に何度も見舞われるようになります。徳川幕府の時代になって戦いのない時代になったこと、災害が続いて生活が大変になったことが想像できます。九州の馬渡又兵衛に関係する一部の人が馬の生産が盛んな青森に移住して、先祖の功績をほまれに思って馬渡又兵衛を代々名乗っていった可能性はあります。これはだいぶあとの話になりますが、幕末の戊辰戦争で会津藩から大勢の人が青森に移住して、土地を開拓し、教育・文化を発展させました。外からやってきた人々がその地域を変えるということはよくあることです。
令和5年(2023年)現在、佐賀県立図書館や青森県立図書館の協力を得て、馬渡又兵衛に関する文献がないか探しているところです。しかし、上記のことから、私たちは佐賀の馬渡一族の一部が青森に移住してきたという説が有力なのでは、と考えています。
これは後の明治時代の話ですが、八戸港も発展して九州からさらに多くの商人が八戸に来るようになったそうです。東北地方とは異なる言語や衣服など文化の違いから、九州から来られた方はかなり目立っていたし、興味深いと人々に見られていたそうです。さらに昔の江戸時代のことですから、もし馬渡一族が移住し、遠く離れた異国から来た者として興味深さゆえに八戸藩の保護を受け、子孫がこの地の開墾に努めていった、という説も考えられるのではないでしょうか。
「南部の殿様」と「馬渡家」の関係
これは親戚の馬渡又五郎氏が語っていたそうですが、かつて南部の殿様が家来衆を引き連れて、たびたび当家に遊びに来ては将棋を打っていたとのことです。その間に、馬の世話係が殿様の馬の体を洗っていたそうです。昭和のはじめまで、浅水川沿いには馬小屋が並んでいたそうです。現在の浅水川はコンクリートの壁でおおわれていますが、かつては矢沢橋のあたりから河川敷に歩いて降りることができていたそうです。南部氏と当家の関わりや当家のルーツは不明ですが、江戸時代に開墾が進められた時代に八戸藩の加護のもと、土地を広げていったものと考えられます。
「大仏町内の松橋家」と「馬渡家」の関係
大仏町内には松橋家が多く在住しています。松橋家は16世紀の大仏一族滅亡後、八戸南部藩の加護のもと、木賊沢(とくさざわ)地内に入植し、開墾に当たりました。江戸時代中期には現在の大仏町内に移住し、相次ぐ凶作飢饉にもめげず、大仏村形成の祖となりました。代々久治と名乗り、神仏信仰頗る厚く、無病息災、村の安全を祈願して薬師堂を造立し、代々受け継ぐとともに、灸術を以って近郷近在の貧者病人救済に功績を残しました。家系図を見ると、初代の松橋久治に馬渡又兵衛の娘が嫁いだようです。(大仏墓地内、松橋家の由来に関する石碑より)
「馬渡家の倉」
八戸駅(当時は尻内駅)が開業した明治24年(1891年)より前からこの倉はあったと言われています。建築業者の方々は、使われている木材(堅くて重い栗の木を使用)や、柱や梁の太さ、釘を使わずに組み合わせる方法などを見て「クレーン車もない時代に、どうやってこんな倉を作ったんだ!?」と感心されます。また、壁の内側に使われている竹材の太さも他の倉に比べてとても太いものが使われていて、「これはすごい倉だ、こわすのがもったいない!」と評価してくださいます。年数がたち、外壁がひびが入ってはがれて落ちているところが多々あります。屋根はトタンが使われ、後の時代に補修したものと見られます。八戸駅西区画整理事務所の話では、令和6年に道路建設にとりかかるので、この倉も道路にかかっていて曳き家(移動)させるか取り壊すかしなければなりません。曳き家する場合も、業者の話では壁がはがれ落ちる可能性が高いので外壁は作り直しになるとのことです。


現在の母屋も150年の歴史があると聞きます。馬渡又兵衛(久平/慶応3年~昭和8年)の戸籍を調べると、上長苗代村大佛33番地と記載されています。明治22年(1889年)に上長苗代村が誕生し、番地には「矢沢」の文字がついていません。(現在の戸籍謄本では、戸籍と現住所の2つが記載されていますが、当時の戸籍謄本では戸籍しか記載されていません。)大正時代になると「矢沢1番地」という文字が見られるようになります。明治時代の「大佛33番地」と大正時代の「矢沢1番地」が同じ場所をさしているのか、別の場所を表しているのかわかりません。ただ、矢沢の現在ある観音様の神社が昔は馬渡家の所有だったことや、墓地が矢沢町内にあること、昔は凉雲院のお寺が矢沢(母屋や倉の目の前にあったと聞きます。)にあったことを考えると、やはり馬渡家は昔から今の場所に居を構えていたと思われます。
明治23年(1890年)は、馬渡久平(又兵衛)の父、馬渡寅乃助(又兵衛)は、当時49歳で三戸郡会議員選挙で当選していることがわかります。江戸時代から明治時代へと、世の中が大きく激変する中で地域を動かすリーダーを務めていたことがわかります。寅之助は1人目の妻、夏堀ほの(苫米地から来る)との間に6男2女に恵まれます。(久平、秀之助、マツ、勇吉、ツル、又蔵、留吉、末吉)ほのが死去した後、2人目の妻である大森なみ(三沢から来る)の間には3男1女(貞吉、貞次郎、惣次郎、ふぢ)に恵まれ、さらに養子として馬渡吉太郎、馬渡仁太郎を迎え入れます。この当時からの親戚付き合いが今も続いています。大仏墓地の近くにある石碑や松倉共同墓地の近くにある石碑(江戸時代の幕末期)には寅之助の文字が刻まれています。
「郡会議員選挙の結果」
八戸 石橋万治 浅水礼次郎 小中野 白井毅一 大館 和田議宣 島守 高畑幾太郎 上長苗代 馬渡又兵衛 下長苗代 高橋種吉 長者 岩館善次郎
参考:はちのへ今昔物語 東奥日報にみる明治23年の八戸
明治23年(1890年)当時の家族構成は下のとおりです。13人が同居する大家族であったと思われます。聞くところによれば、さらに家の世話人、馬の世話人なども屋根裏の部屋に同居し、かなりの大家族だったようです。
馬渡又兵衛(寅之助)49歳
馬渡なみ(後妻)32歳
※三沢村大森三六の長女
※2年前の明治21年に入籍
馬渡久平(長男25歳)
馬渡なお(長男久平の妻15歳)※金子安兵衛の二女
馬渡秀之助(次男19歳)
馬渡勇吉(三男13歳)
馬渡又蔵(四男9歳)
馬渡留吉(五男7歳)
馬渡貞吉(七男0歳)
※長女の馬渡マツは明治5年に3歳で死去
※六男の馬渡末吉は明治21年に3歳で死去
※前妻の馬渡ほのは明治19年に末吉を出産して43歳で死去
このほか、馬渡又兵衛(寅之助)には養弟として馬渡春松(長者村類家与吉の四男、当時32歳)と、その妻である馬渡はな(豊崎村七崎の下崎島吉の二女、当時29歳)、その長女せん(当時9歳)、長男福蔵(当時0歳)がいました。春松親子は後に北海道亀田郡に移住します。
その後
明治24年(1891年)馬渡吉太郎(馬渡又十郎の四男:当時27歳)を養子にする
明治24年(1891年)馬渡仁太郎(馬渡万次郎の二男:当時20歳)を養子にする
明治25年(1892年)八男:馬渡貞次郎が誕生
明治27年(1894年)九男:馬渡惣次郎が誕生
明治29年(1896年)三女:馬渡ふぢが誕生
明治30年(1897年)3月、二男秀之助が新井田たか(五戸の新井田登の三女)と結婚
など、又兵衛(寅之助)は明治30年(1897年)9月に56歳でなくなるまでに子に恵まれたようです。
長男の馬渡久平(又兵衛)は慶應元年(1865年)生まれです。のちに上長苗代村の村長も務めたと聞きます。馬渡家の敷地では馬を放牧し、優秀な馬を生産したことが記録として残っています。八戸の産馬組合の会長も務めました。写真を見る限り、とてもこわそうな顔つきです…。金子なほとの間には子がいなかったそうです。昭和8年(1927年)に69歳で死去した後、妻のなほは久平の弟である馬渡惣次郎の長男馬渡又平を養子に迎え入れます。又平が15歳のことです。
又平は勉強熱心で東京の大学に進学しますが、時代は日中戦争、太平洋戦争に突入していき、戦後の農地改革では土地を削られてしまいました。そんな中、いろんな業者にお金をとられ、不遇な人生を歩みました。
寅之助の九男であった馬渡惣次郎が馬渡家を継ぎました。惣次郎は小学校の教員を務め、地元三条小学校でも教員を務めていたそうです。昭和10年代には名馬を育てて内閣から表彰を受けています。もともと馬を生産する家でしたが、戦争中は軍馬も必要とされた時代です。上長苗代村の議員も務め、明治時代から昭和にかけて親子で議員を務めたことになります。
惣次郎は明治27年(1893年)の生まれで、昭和60年(1985年)に死去しました。93歳という長生きをした人ですが、親戚のみなさんの話によると、こわそうな人というイメージがあるようです。これは戦後の話ですが、着物をきて、つえをついて歩き、洋風の帽子をかぶり、マントを身に付けて、とても背筋が伸びてよい姿勢で立ち、貫禄があったそうです。

1 唯心院萬山一法居士
延宝6年(1680年)生まれ〔※推定〕~
元文2年(1737年)死去 58歳〔※推定〕
榮昌院喜法貞観大姉
天和3年(1683年)生まれ~
安永5年(1776年)死去 94歳
〔※戒名札に記載あり〕
2 天真院忠山祐心居士
宝永元年(1704年)生まれ~
安永9年(1780年)死去 77歳
〔※位牌に記載あり〕
〔※過去帳に又兵衛先祖とあり〕
明心院雪巖妙白大姉
宝永5年(1708年)生まれ〔※推定〕~
安永3年(1773年)死去 ※推定59歳
3 穏真院松肫良睦居士
享保7年(1722年)生まれ〔※推定〕~
明和4年(1767年)死去 46歳〔※推定〕
〔※お寺の過去帳に又兵衛とあり)
〔2忠山の長男?〕
恵寛院天室妙光大姉
享保10年(1725年)生まれ~
寛政5年(1793年)死去 67歳
〔※戒名札に記載あり〕
上記の2代目、3代目とその妻についての関係は本当に推測です。つい最近まで忠山と松肫は兄弟ではないかと推測していました。しかし、2つ目の墓石の中央に忠山の名前が刻まれ、松肫の名前が側面に刻まれているのを考えると、忠山が2代目ではないかと推測しています。
写真下 1萬山と喜法の戒名が墓石に記載。江戸時代の墓石は「一族の墓」ではなく、「夫婦ペアで1つの墓石」です。〔真ん中の長方形の墓石〕
写真下 2忠山と雪巖、天室の戒名が墓石に記載され、さらに側面には3松肫や4持法の名も刻まれています〔右側の上部がとがった墓石〕

4 大真院持法天戒居士
享保15年(1730年)生まれ〔※推定〕~
安永2年(1773年)死去 44歳〔※推定〕
〔※過去帳に又兵衛とあり、2忠山の次男?〕
紅月院玉林貞松大姉
享保19年(1734年)生まれ〔※推定〕~
享和2年(1802年)死去 68歳〔※推定〕
5 德満院無量大心居士
宝暦2年(1752年)生まれ〔※推定〕~
文政元年(1818年)死去 66歳〔※推定〕
馬渡ハナ 吉祥院安室凉穏大姉
宝暦6年(1756年)生まれ〔※推定〕~
天保2年(1831年)死去 75歳〔※推定〕
〔※馬渡清助より来ると過去帳にあり〕
6 馬渡又兵衛(申松)専智院春光大榮居士
安永3年(1774年)生まれ~
弘化5年(1848年)死去 75歳
〔※過去帳に記載あり〕
馬渡クメ 玉晃院壽榮妙光大姉
天明元年(1781年)生まれ~
弘化5年(1848年)死去 68歳
〔※過去帳に記載あり〕
〔※三本木村馬場新右エ門より来る〕
7 馬渡又兵衛(又五郎) 清凉院大道覚心居士
文化8年(1811年)生まれ~
嘉永5年(1852年)死去 42歳
〔※過去帳に記載あり〕
孝心院安室妙貞大姉
文化7年(1810年)生まれ~
慶應2年(1866年)死去 57歳
〔※過去帳に年齢あり〕
〔※傳法寺村工藤周作より来る〕
8 馬渡又兵衛(寅乃助)正興院仁恵清義居士
又五郎の次男
天保13年(1842年)生まれ~
明治30年(1897年)死去 56歳
馬渡ほの 貞照院香室恵薫大姉
又兵衛(寅乃助)の妻
〔※苫米地村夏堀源太郎より来る〕
弘化元年(1844年)生まれ~
明治19年(1886年)死去 43歳
〔※過去帳や墓石に記載されている妻〕
馬渡なみ 又兵衛の後妻 三沢村大森三六の長女
〔※戸籍に記載されている妻〕
安政5年(1858年)6月3日生まれ~
明治32年(1899年)
〔※三沢160番地大森亀ノ助方へ戻る〕
写真下 馬渡家共同墓地にある江戸時代~明治時代にかけての墓石 歴代の当主と妻、日露戦争でなくなったご先祖様たちが埋葬されています。(一番新しい墓石が明治時代のものであり、それ以降は作られていなかったので、令和2年12月、新たに馬渡家一族の墓を建立しました。)

9 馬渡又兵衛(久平) 積功院全慶徳隆居士
又兵衛(寅乃助)の長男 母ほの
明治4年(1871年)生まれ~
昭和8年(1933年)死去 63歳
馬渡なほ 祥雲院禅室妙養大姉
馬渡又兵衛(久平)の妻
廿三日町金子安兵衛二女
明治8年(1875年)1月8日生まれ~
昭和20年(1945年)死去 71歳
10 馬渡又平 自然戒道居士 惣次郎の長男
大正12年(1923年)生まれ~
矢沢1番地にて生まれる
馬渡なほの養子となって家督相続する
昭和63年(1988年)死去63歳
11 馬渡惣次郎 興雲院瑞翁政徹禅居士
馬渡又兵衛(寅乃助)の九男 母なみ
明治27年(1893年)生まれ~
昭和60年(1985年)死去93歳
兄の又兵衛(久平)には子がなく
惣次郎は長男又平を養子に出す
のちに自分が家督相続をする
馬渡江い 興賢院静月照鏡大姉
馬渡惣次郎の妻 金子宇太郎・きくの三女
明治34年(1901年)生まれ
昭和48年(1973年)死去77歳
12 馬渡芳孝 耕雲院真道芳悦居士
馬渡惣次郎の二男
大正14年(1925年)生まれ~
平成21年(2009年)死去85歳
馬渡ハル 祥善院春室清穏大姉
馬渡専太郎・ゆみの二女
大正14年(1925年)生まれ
平成19年(2007年)死去83歳
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