渋谷家について

ホームページ 名家のルーツを探る 『渋谷家の千年』

(相模大野駅周辺商店会連合会会長・渋谷直樹氏)

では、以下のように記されています。

 渋谷の姓は、平安京を造った桓武天皇(737年―806年)の曾孫である高望王が「平」姓を賜ったことにはじまります。その後の秩父平氏へと続き、末裔・平武綱は「後三年の役」の大功で「河崎土佐守基家」という名と、武蔵国豊島郡谷盛庄(現在の渋谷区周辺)を賜りました。さらに、基家の嫡男・重家は禁中の警護の任にある時、押し入ってきた賊を捕らえた功で渋谷の庄(現在の綾瀬市、大和市、藤沢市、相模原市周辺)を拝領しました。重家は居を渋谷の庄に移して城を築きました。今も綾瀬市役所の裏手に城山公園として残っています。

澁谷家の千年【1】平安時代

https://www.townnews.co.jp/0302/2011/07/21/111780.html

澁谷家の千年【2】平安時代末期~鎌倉時代https://www.townnews.co.jp/0302/2011/10/27/122667.html

澁谷家の千年【3】平安時代末期~鎌倉時代

https://www.townnews.co.jp/0302/2012/01/26/133001.html

 

【澁谷利左ヱ門について】

 全国各地に渋谷(シブタニ・シブヤ)はありますが、うちのご先祖様である渋谷(シブタニ)は下館藩(現在の茨城県筑西市)の出です。家紋は、明智光秀と同じ「丸に桔梗の花」です。いつの時代から下館にいたのかはわかりませんが、幕末のころ、渋谷利左エ門は勘定に関わる役職の仕事をしていました。

 嘉永3年(1850年)かの有名な二宮尊徳先生は下館藩の経済立て直しのために指導してくださいました。下館仕法と言われます。二宮先生が下館藩の家臣に教授してくださったことを記録した談話記録には、渋谷憲蔵の名が出てきますが、憲蔵とは利左エ門のことであると「渋谷伊予作伝」(下館藩の家老の子孫が書き残した)の冒頭に書かれています。(下館の郷土史研究家、松田さんからいただきました。)

 下館城跡の看板の説明にも渋谷利左エ門の名が登場し、二宮尊徳先生による経済立て直しの指導を受けながら勘定方の仕事をしたようです。

 

【澁谷伊予作について】

 渋谷利左エ門の長男、渋谷伊予作は、最初は藩士として江戸で藩主石川総官公に仕えていましたが、脱藩して京都へ向かいました。そして、京都では中山忠光卿(尊王攘夷派の公家で孝明天皇の侍従、姉は明治天皇の母)に召し抱えられ、天誅組の変に加わって大和で討幕のため挙兵しました。しかし、幕府軍(津藩)に捕らえられ、処刑されてしまいました。のちの時代になって、明治政府から従四位の位を賜りました。筑西市には有志のみなさんが建立してくださった顕彰碑があります。下館音頭の歌詞(西條八十:作詞)の中にも澁谷伊予作の名前が登場します。

 

【京都・奈良を訪問】

 令和元年に京都霊山護国神社を訪問しました。明治維新のために功績のあった勤皇志士のお墓があります。坂本龍馬や高杉晋作など歴史上有名な人物の墓や天誅組に加わった志士の合祀墓もあります。その中には、澁谷伊予作の名前も刻まれています。奈良・五條市では、滞在中、民俗資料館の館長様をはじめ、市民の皆様に大変お世話になりました。

 

天誅組の説明看板(京都霊山護国神社)

 

 

天誅組が陣を敷いた桜井寺を訪問(奈良県五條市)

 

勤皇志士と幕府軍の武士も渡った吉野川(奈良県五條市)

 

吉野は源義経主従と静御前がかくれた場所でもあり、後醍醐天皇が南朝を開いた地でもある(奈良県吉野町)

 

 

渋谷伊予作の思想  

栄進堂印刷株式会社のホームページには以下のように記されています。 

 伊予作が11歳のときにアメリカからペリーが来航しました。日本中が大騒ぎの中、伊予作も尊王攘夷のイデオロギーに染まっていきました。17歳のときに江戸詰めとなり、藩主のそばで生活をしましたが、下館藩は徳川将軍の側近で幕藩体制の維持派でした。

 18歳のとき、桜田門外の変が起き、この事件が決定的な転機になりました。伊予作は藩主へ次の手紙を書き遺して脱藩します。「今の世の中は、 朝廷の威信は振わず、 幕府は権力を労するのみで、 外敵にも適切な対応ができずにいます。 しかも姑息にも尊攘の志士の弾圧を始めるなど、このままでは国の行く末が危ぶまれてなりません。自分は取るに足りない身分ですが、 この国家の大事にあたり、身をもって皇室に忠義を尽くし、この血を外敵の頭上に注ぎたいと決心しました。かくなる上は、 再び生きて帰るつもりはありません。 殿には誠に申しわけありませんが、 脱藩という大罪をおかします。 幸い二人の妹が居りますので孝行をさせたいと思います。私の今の心からの願いは、死んで忠義の鬼となり、 護国の柱石となることだけです。」

 1862年、天誅組は孝明天皇の大和行幸に併せて挙兵しましたが、「八月十八日の政変」で公武合体派により尊王攘夷派が追放され、行幸は中止となりました。天誅組は孤立し、幕府の追撃が始まりました。

 伊予作は追討に駆け付けた津藩の本陣に行って、得意の弁説で非は幕府にある事を説きましたが、逆に捕らえられてしまいました。伊予作に侍従した者の話では、藤堂藩の対応はとても丁寧であったとのことです。伊予作は次のように述べました。「このたび当地に発向した趣意は、去月13日に御親征が仰せ出されたので、義兵を募り、鳳輦を御守護するつもりであったが、同月18日松平肥後守(容保)が逆意を企て、不法にも御所内に押し入り、恐れ多くも主上(統仁)を押し込み奉り、偽命によって四方に号令を発したことは痛嘆に堪えない。この上は同志・諸大名に申し合わせ、右逆賊を放逐いたし、宸襟を安んじ奉りたいという思いであったところ、名のある諸大名家よりも使者をもって、大挙して在京の逆徒を征討すべきことを申してきた。 貴家がかねて勤王の志のあることは承知している。間違いなく逆徒追討の御策略もあることと思う。それにもかかわらず、このたび五條へ手向かいの様子をみると、官軍へ敵対するようにも見える。念のため談判し、何を思っているのかきちんと承知いたしたいと思う。追伸、五條代官支配地について、すでに村々は禁裏御料に改めたはずであるが、このたび(貴家の領地として)増加されたと承った。何者より拝領したものか。承りたい。」

 津藩藤堂氏は捕えた渋谷伊予作の見解に動揺し、追討に来ながら京都の会津藩主松平容保に対して天誅組への理解を示しました。しかし、幕府軍の命令で、伊予作は津藩の牢に入れられた後、京都に送られ、同時に捕らえられた数人の仲間と共に、京都町奉行所の取り調べを受けた後に、「皇国を騒がせた罪」により、1863年2月16日、京都六角獄舎で打ち首となりました。大政奉還・王政復古の大号令まであと4年、23才でした。辞世は、「あわれ世の浮き雲おおふ大内山月の光のいつかあふがん」というもので、大内山というのは皇居をさす言葉です。伊予作の無念さが表れた歌です。

 打ち首になった直後、家族は悲惨を極めたようで、父の利左エ門は伊予作と同じ年に亡くなっています。 明治27年には、政府の肝煎りで下館市内本城町の八幡神社の境内に、伊予作への贈位をたたえる顕彰碑も建てられました。

 伊予作は京都の獄中から二人の妹に和歌を贈っています。それは扇子に書かれていて、写真が残っているそうです。原物も今でも残っていると思われます。明治40年に、この地方で陸軍大演習があった時、明治天皇にこの扇子をご覧にいれたという記録があります。

※引用:栄進堂印刷株式会社ホームページ
 http://www.eishindo.co.jp/iyosaku/

 

 

 

 

【舟久保藍 著 『実録天誅組の変』に見る澁谷伊予作のはたらき】

 下館藩士勘定方渋谷利左エ門の長男で、十七歳の時、江戸藩邸で藩主の側に仕えることになったが、桜田門外の変を機に脱藩して挙に投じた。伴林光平は、彼のことをこう評している。

 圓目隆鼻、長高く肉厚し、膂力(腕力)衆を超ゆ。肩ぎょう骨耳(肩の骨が張って耳に届くほどの様子)。所帯の大刀、刃の渡り三尺三寸、重さ一貫八百目と云。平生衆に接するや、語呂喃々、童蒙の如し。しかして事に臨むるや応対確乎、聊も正義失せず。(伴林光平『南山踏雲録』)

 体格がよく豪傑そのものといった風で、持っている刀は刃渡り1メートル、重さ約7キロという代物であった。その風貌と裏腹に子供のようにやさしい話し方をした。しかし事に臨むとその対応や信念はゆるぎないものであったという。津藩では渋谷を酒食でもてなし、眠ってしまったところを取り抑えてしまった。大きな身体は長持に押し込められて大和古市村の陣屋へと送られたが、その最中、渋谷の足は長持を突き破り、運ばれながら高鼾で眠っていたという話がある。

 

 古市陣屋へ送られた渋谷伊予作は、津藩から厳しく詰問を受けていた。渋谷は堂々と皇軍の大義名分を述べ、津藩士を大いに困らせたらしいことが、9月8日に同藩から京都守護職に出した書面に表れている。

 この度召し捕り候渋谷伊予作、厳敷く取調べ候處、この度追討の儀、勅命の由に候へども、鎮守将軍の命を蒙りなされ候有栖川宮様に鉄砲仕掛け、長州の忠士を御所へ入れ申さず事など、皆会津のしわざにて、その後の勅命は真の勅命に非ず。其の証、去る丑年以来恐れ多くも攘夷御決心の御事ゆえ、我々は真の勅命に候はばこの度追討の儀、中山侍従へ申込みこれ有るべく處、その儀これなき旨申し募り、不意に召し捕られ候の段、甚だ残念の旨申立て候に付、中山侍従当時庶人の身、尤も偽勅に相違いこれなきに付、速やかに追討候様、勅命の上は片時も差し置き難く、殊に陣場へ猥りに立入り候に付、召捕り候儀もこれもって叡慮の申し聞かせ候處、何分勅命真偽の廉了解仕らず、品々申立て候。右の次第に付、応接仕り候者どもは勿論、一統憤怒に堪えず候段、申越し候。この段、御届申上げ候間、いかが仕るべきや。宜しく御差図成し下さるべく候。以上。藤堂和泉守家来 千田源内

 

 渋谷があれこれと申し立てるので、応接にあたった者ばかりか皆が渋谷の言い分に腹を立て、双方とも自分たちの行動こそが真の勅命であると言い合うばかりで、どうすればよいかと指示を仰いでいるのである。その後、同藩はかねて天誅組が寄越した書状と渋谷の言い分に心動かされ、藩主がが京都守護職へ意見書を出した。彼らが真の乱心賊子ではないこと、皇国勇敢の士が必要なこの時に彼ら討伐するのは無残である、追討ではなく鎮撫の御沙汰を出して彼らを諭し解散させるべくとの内容であった。

 

 今般和州五條表において乱妨に及び候諸浪士共追討の儀、勅命蒙り奉り、速やかに人数差出し、去る七日には兼ねて御届申上げ候通り、大日川に攻め寄せ、其の後も先手の者においては種々軍議を尽くし今日にも再び追討を加へ、最早退治仕り候も計り難く候へども、先日召捕候、渋谷伊予作、存込得と相調べ候處、元来見込みは相違い致し候へども、尊王攘夷の儀においては身命を擲つとあくまで存じ居り候事ゆえ、真の乱心賊子にもこれなきと存知奉り候。殊に今般攘夷の儀、更に仰せ出され、帥宮別に勅使蒙り仰せられ候間、此度こそ関東において違背はこれ有るまじく、左候時は皇国勇敢の士は養い置候折柄、彼を一時に打ち潰し候ては如何にも無残の事と存じ奉り候間、やはり鎮撫の御沙汰に相成り候様、願わしく、いよいよ右鎮撫に御決定相成り候はば、浪士共へ急に仰せ論され、夫々生國へ引き取り候様に相成り、其の上にて領主地頭に是非曲直相糺し候様、仰せ付けられ候では如何これ有るべきや。

 

 

 

 

 

【義烈回天百首に残る澁谷伊予作の短歌】

 1874年(明治7年)に編集され、幕末志士の歌を集めた和歌集です。吉田松陰、久坂玄瑞、藤田東湖のほか、澁谷伊予作をはじめ天誅組の志士の句も納められています。


002.いとはじな 君と民との 為ならば 身は武蔵野の 露と消ゆとも (和宮)
006.見せばやな 心の隈も 月影も すみ田川原の 秋のタばえ (藤田東湖)
015.斯くすれば かくなるものと 知りながら 止むにやまれぬ やまと魂 (吉田松陰)
019.雲りなき 月を見るにも 思ふかな あすはわが身の 上に照るやと (吉村寅太郎)
020.思ひきや 山田の案山子 竹の弓 なす事もなく 朽ち果てんとは (中山忠光朝臣)
021.み簾ふかく 時のきざみの 言葉して 今や咲くらむ 九重のはな (藤本鉄石)
022.君が為 みまかりにきと 世の人の 語りつげてよ 峯の松かぜ (松本謙三郎)
024.数ならぬ 身にも弓矢の 幸を得て 都の花と ちるぞ嬉しき (安積五郎)
026.身を捨てて 千代を祈らぬ 大夫も さすがに菊は 折りかざしつつ (伴林光平)
030.よしあはれ 枯野の露と 消えぬとも 魂は雲井に 有明の月  (渋谷伊与作)
032.いましめの 縄はちしほに 染るとも 赤き心は など変るべき (乾十郎)
081.ほととぎす 血に啼く声は 有明の 月より外に 知る人ぞなき (久坂玄瑞)

引用:いにしえwikiホームページ

https://wiki3.jp/inishie/page/676

 

 

【澁谷家の家系について】

澁谷利左エ門 下館藩の勘定奉行
文政3年(1820年)生まれ〔※推定〕
天保3年(1832年)田中つたと婚姻
天保13年(1842年)伊予作誕生〔※推定22 歳〕
嘉永元年(1848年)長女てゐ誕生〔※推定26歳〕
安政5年(1858年)二女りん誕生 〔※推定36 歳〕
元治元年(1864年)死去〔※推定44歳〕


澁谷つた  (田中東太夫の長女) 利左エ門の妻
文政6年(1823年)生まれ
天保3年(1832年)10歳で婚姻
天保13年(1842年)長男伊予作誕生20歳
嘉永元年(1848年)長女てゐ誕生26歳
安政5年(1858年)二女りん誕生36歳
明治30年(1897年)死去75歳
※利左エ門の妻である「つた」については、
明治時代の戸籍で知ることができます。
それを基に利左エ門の年齢を推定しました。


澁谷伊予作(長男)
天保13年(1842年)生まれ
文久2年(1862年)下館藩を脱藩
京都にて尊王攘夷派と合流
文久3年(1863年)大和にて挙兵
幕府軍の津藩に捕らわれる
文久4年(1864年)
京都六角獄舎にて処刑される 23歳
後に従四位に叙せられる
京都霊園に天誅組の合祀墓あり


澁谷てゐ(利左エ門の長女)夫は金吾
嘉永元年(1848年)生まれ
元治元年(1864年) 澁谷柳助と婚姻16歳
慶應3年(1867年)離婚19歳
明治元年(1868年) 澁谷金吾と再婚20歳
大正13年(1924年)死去77歳
東京府北豊島郡日暮里町大字金杉700番地
同居の鈴木誠之助が届出


澁谷金吾 (利左エ門の養子、中川舟三の四男)
嘉永3年(1850年)生まれ
明治元年(1868年)澁谷てゐと婚姻18歳
西南戦争に参軍する
大正4年(1915年)死去66歳


澁谷りん(利左エ門の二女)
安政5年(1858年)生まれ
明治17年(1884年)
浅田里儀と婚姻するが5年後に離婚
明治22年(1889年)木下四郎衛門と再婚


澁谷みゑ(てゐの長女 )
明治6年(1873年)生まれ
明治22年(1889年)小野里力と婚姻
明治24年(1891年)離婚
明治26年(1893年)宮本八十吉と再婚
明治26年(1893年)長女かねが誕生21歳
大正4年(1915年)三女スエが誕生43歳
大正4年(1915年)前戸主澁谷金吾死去
家督相続
昭和4年(1929年)隠居 田中兼太郎と再婚
真壁郡真壁町大字眞壁192番地
昭和20年(1945年)五所川原町へ疎開73歳
昭和32年(1957年)藤崎町で死去85歳


澁谷さく (てゐの二女)
明治9年(1876年)生まれ
栃木縣芳賀郡益子町大字益子1040番地へ
松本庫乍と再婚


澁谷あさ(てゐの三女)
明治11年(1878年)生まれ
明治30年(1897年)
真壁郡中村大字石塔坂 ○仲太と婚姻


澁谷せい(てゐの四女)
明治14年(1881年)生まれ
明治41年(1908年)
千葉縣東葛飾郡行徳町本行徳303-1
鈴木誠之助と婚姻27歳


澁谷 長 (みゑの二男)
明治41年(1908年)生まれ
群馬県利根郡沼田町にて出生届
大正10年(1921年)澁谷みゑと養子縁組
茨城県稲敷郡木原村大字布佐16番屋敷
宮本鉄之助方から入籍 宮本八十吉承諾
昭和4年(1929年)家督相続
昭和16年(1941年)阿部ツヨと婚姻33歳
東京市荒川区にて
本籍は茨城県真壁郡下館町乙616番地
昭和20年(1945年)五所川原町に疎開
昭和23年(1948年)森陽一と養子縁組
藤崎町へ
平成20年(2008年)死去100歳


澁谷ツヨ (阿部慶助、ふての長女、阿部慶一の姉)
大正5年(1916年)生まれ
北津軽郡七和村大字羽野木澤字實吉47番地
昭和16年(1941年)澁谷長と婚姻25歳
昭和46年(1971年)死去55歳

 

【澁谷家の墓 澁谷みゑー澁谷長ー澁谷ツヨの墓を建立】

令和4年11月、八戸市の馬渡家共同墓地に澁谷家のお墓(澁谷みゑ以降)を建立しました。

※澁谷勘太夫ー澁谷利左ヱ門ー澁谷伊予作、澁谷金吾・てゐの墓(江戸時代、明治、大正)は筑西市の光徳寺にあります。



 

【茨城県筑西市を訪問】

 令和5年11月、筑西市の光徳寺を訪問しました。ここには澁谷伊予作の父澁谷利左ヱ門や祖父澁谷勘太夫の墓もあります。伊予作の妹てゐと婿養子澁谷金吾の墓もあります。訪問に際しましては、住職様をはじめ、厚誼会の皆様に大変お世話になりました。

 八幡神社には澁谷伊予作の功績を称える石碑がありました。看板には父利左ヱ門に関する記述もありました。

 羽黒神社には下館音頭の碑が建立されており、歌詞が刻まれています。また、現在は不明となっている伊予作が妹にあてておくった扇子も石碑に刻まれています。


 光徳寺にて拝見した文書です。伊予作が脱藩して京都に向かう直前に、お世話になった寺子屋の先生の一周忌に際してお金を出した志士の名簿に伊予作の名前が記載されています。