【令和2年度(2020年度)】
新型コロナウイルス感染症が世界中に広がり、毎日、新規感染者数や死者数がテレビや新聞で報道されました。緊急事態宣言が発令され、ソーシャルディスタンス(距離をあけて生活する)をとり、3蜜(密集、密接、密閉)を防ぐこと、マスクをすることなど、「新しい生活様式」が求められました。恐怖や不安、混迷の日々が続きました。三条学区においては、八戸駅西区画整理が動き出しました。「周辺の皆さんが移転しないと馬渡さんの区画整理事業も進まない。おそらく令和8年頃になるだろう。」と区画整理事務所の説明がありました。この時点では、周辺や馬渡家の敷地がどのように区画整理されていくのか説明を聞いてもよく分かりませんでした。
令和2年の夏には蔵を解体して家を一軒建てる予定でしたが、父が病死して葬儀を執り行い、相続手続きで忙しい1年間を過ごすことになりました。家を新築する明るい気持ちにはなれず、E社と契約した家の新築は取り消しました。K
事務所とは、相続税についての話し合いを月に1度のペースで行いました。所有する家、敷地・田・畑・山林などにかかる相続税を家族でどのように分担するか話し合いました。手続きに必要な書類を集めたり、所有する土地の現地確認なども行いました。登記手続きはE社に紹介してもらったY事務所に依頼しました。
この年に行ったことは、「所有する土地の明確化」「家系図の作成」「ホームページの作成」です。相続を機に所有する土地の区割り(家の敷地、田、畑、山林、神社など)について不明だったものがたくさんあったので、法務局から取り寄せた地図を基に調べて地図化しました。また、葬儀を機に、当家には親戚がたくさん来訪しますが、当家とのつながりや江戸時代から続く馬渡家のルーツを調べ、家系図を作成しました。そして、尻内地区の過去・現在・未来のつながりを記録していくために、このホームページを開設しました。ちょうど職場でもホームページを開設したいと考えていたので、ホームページの作成について学習しました。
【令和3年度(2021年度)】
令和3年度は新型コロナウイルス感染症がさらに拡大しました。楽しみにしていた東京オリンピック・パラリンピックは1年延期で、しかも無観客で実施されることになりました。感染者数は激増し、国民はワクチン接種を受けることになりました。感染による後遺症やワクチンの副作用に苦しむ人もいました。
昨年度から行ってきた相続手続きと相続税納入は5月に完了しました。この年、後を継いだものが「馬渡家共同墓地の墓地管理者」「矢沢水利組合の会長」「凌雲院の総代長」です。
墓地管理者の届出を市役所に提出し、馬渡家共同墓地にお墓を所有する27世帯に通知のプリントを配付しました。身内で亡くなった人がいる場合は、法律に基づいて埋葬許可書の提出をすることや、夏の前には各自で草取りをするよう呼びかけました。
下川原の田んぼは、令和2年度から稲作を行っていません。浅水川から水を取り入れる取水口の機械が故障し、用水路に水が流れてこなくなったのです。これを修理すると1億円は超えるという見積りです。44世帯で割ったとしても1世帯あたり300万円くらいの負担です。田んぼの所有者の高齢化が進み、負担金を払ってまで行うか、矢沢水利組合で話し合いがありました。青森県が間に入って集団でニンニク畑を経営する人に貸すことに決まりました。父の死去に伴って矢沢水利組合の会長を引き受けることになりました。
お寺の総代長も引継ぎましたが、新型コロナウイルス感染症の拡大により、会合は開いていません。
大仏に所有している山林は、場所が不明確なものが多く、E社が法務局から地図を取り寄せてくださり、それを手がかりにインターネットの画像で調べたり、実際に現地に行ってみたりして確認する作業をしました。明治や大正の話ですが、大仏の山はかつて木が一本も生えていないくらいの山で、大豆畑が広がっていた時代があったといいます。後にリンゴ畑を経営したとも聞きます。戦後の改革により、親戚や近隣の人に土地が分け与えられ、馬渡家が所有する山林は一部になりました。
下根市の天間宮は張田の児童館のすぐ近くにあります。昭和28年に創設された記録が残っています。安産を祈願する神社だと聞きます。中に入るとおもちゃの人形が飾られていますが、ご神体ではないようです。土地が小高く盛られている上にお社と御神木がそびえたっています。周りには高い建物もないし、雷が落ちる危険もあります。お社は老朽化して傾きつつあり、御神木も枝が折れて近隣の人に迷惑をかける心配があります。鳥居もぐらついて朽ちています。正月の飾りつけはしていますが、日常的には近隣の方が拝む程度の神社になり、近いうちに移転をした方がいいのではと考えています。
敷地の裏にある作陽神社は昭和8年の創建で、約90年の歴史があります。みんなで「お稲荷様」と呼んでいます。もとは農業の神様ですが、商売繁盛や家内安全など様々なご利益があります。毎年6月2日が例祭の日と聞いていますが、その近辺の日曜日に例祭を行っています。神楽の舞を依頼して、20人ほどが集まり祈願しています。しかし、身内の不幸ごとや新型コロナウイルス感染症の拡大により、例祭は今年も中止です。
区画整理事務所から、所有する土地の今後の区画整理事業について説明が始まりました。八戸駅の西口からの広い道路が延伸され、令和3年度から令和4年度にかけて橋を建設することになりました。その後、櫛引髙田に向かう道路が敷地を通り、庭は分断されます。この道路は蔵を通ります。移転させるか解体させるか、令和4年度の秋までに行ってほしいとのことです。また、農作業小屋は直接道路にはかかりませんが、新しくできる橋の高さに合わせて土地を1m以上かさあげするので、移転させるか解体しなければならないとのことです。それだけでなく、この敷地全体がかさあげをするので、母屋も移転させるか解体して新築しなければならないとのことです。このような説明と話し合いを何度も行いました。区画整理事業は、この地域にとって「明治維新」「鉄道開業」「戦後の改革」に次いで歴史の大きな変遷となる事業です。馬渡家にとっては大きな難題が山積みされています。蔵、農作業小屋、家、裏の神社、裏の山林、畑が造成工事されることになり、どのように、どの順番で造成していくべきなのか難しい判断にせまられました。 そして、八戸駅に向かう橋の建設が開始され、敷地内には鉄板が敷かれてダンプカーや重機が往復するようになりました。
令和3年度の秋には、さらに大変な出来事がありました。敷地内にスズメバチがたくさん巣を作っていたのです。夏からスズメバチがぶんぶん飛び回っていたので、おかしいと思ってました。家の軒下、矢沢バス停の裏にある杉の木、オンコの木、カラタチの木など8か所に大きな巣があり、業者に依頼して駆除してもらいました。費用は20万円くらいです。スズメバチが生息する環境として風通しの悪さもあります。裏の山林は枝が多く、風通しが悪いのです。そこで、秋から冬にかけて葉の落ちている時期に枝を切り落としました。これによって視界が開け、風通しもよくなりました。切り落とした枝は軽トラックに積んで、大仏にある山林(所有する土地)に捨てました。朝早く運搬してから仕事に向かいました。通算34往復もがんばり、ひじの腱鞘炎がひどくなりました。
そして、年が明けて2月、ついに家族みんなが次々と新型コロナウイルス感染症(オミクロン株)に感染してしまいました。発熱、咳、喉の痛み、気管支の痛みに苦しみました。
【令和4年度(2022年度)】
令和3年度に橋の基礎工事が開始され、令和4年度には橋げたの工事が行われました。敷地には鉄板が敷かれて工事車両が通る仮道路がつくられましたが、畑はこれまで通りに作物を育ててよいとのことです。ダンプカーなどが通らない時間は母屋、農作業小屋と畑の行き来ができます。畑については収入を得るようなものではないのですが、かつてネギを出荷していた時期もあったそうです。畑を維持するためには、春先にトラクターで耕します。草木が生えるようになるとダメです。今ではキュウリ、トマト、ジャガイモ、サツマイモの収穫を楽しみにしています。いずれ、この畑もかさあげ工事の対象になり、宅地に変わってしまうとのことです。
蔵についてどうするか、令和3年度からずっと考え続けてきました。一度は解体してそこに新しい家を建てようとしました。しかし、どの業者の方も「こんな立派な柱や梁を使った蔵は初めて見た。壊すのはもったいない。」と言います。蔵は明治24年(1891年)に国鉄が開通する以前からあったと伝えられ、130年以上の歴史があります。「クレーン車もない明治時代に、こんな太くて長い栗の木を使った2階建ての蔵を、当時の人たちはどうやって作ったのか、現代人では作れない。」と業者の方に言われると、この文化財的な価値がある蔵を残した方がいいのだろうか、古民家レストランなど何か活用できる方法はないかと思います。青森県古民家再生協会にも相談しましたが、古民家として買い取ってくれる人はいませんでした。決断する期限がせまった8月、ついに蔵を解体することにしました。蔵の壁にはひびが入っていて、大きな地震があれば倒壊する恐れもあります。令和元年や令和2年の風速43mの暴風では屋根のトタンの一部が剥がれ、危険な状態が続いています。建築の資材や技術では文化的な価値があります。この蔵の前では闘鶏大会やゲートボールなども行われました。子供会の集まりでシャボン玉を飛ばしたこともありました。老朽化して危険な建物になりましたが、130年以上にわたってこの地域に住む人たちにとって、なじみのある場所でした。3年前からはライトアップを始め、夜には白く浮かび上がるようにして愛着のある建物でした。
8月のうちに、蔵に保管されている物をすべて農作業小屋に運び出しました。土ぼこりとカビがひどく、病気になりそうです。たくさん出てきたものは、明治時代のお膳です。この時代は盛大な酒盛りを行い、たくさん人々が集って祝い事をしていたことがわかります。皇紀2600年の祝賀会も昭和15年に行われ、記念する食器がたくさん出てきました。それから運び出すのが大変だったのは明治時代や大正時代の着物です。保存状態はわりとよく、これらを処分してしまうのはもったいなく、箪笥と一緒に小屋に移動させました。蔵の2階は階段が急であるため、運び出すことはとても大変です。そのほか、戦前の時代の手紙や文書関係、太平洋戦争時代の服や雑誌、馬渡又平・和昭・芳孝・昭治の4兄弟が勉強した教科書やノートなどもたくさん出てきました。馬渡惣次郎たちが大切に保管したのでしょう。そして、明治生まれの馬渡又兵衛の写真も見つかりました。仏壇の部屋の肖像画はおだやかな表情ですが、写真では目つきがするどく、産馬組合の会長として威厳が感じられます。
馬渡石蔵さんの話では、戦前、石蔵さんは小さい頃から馬渡家に住み込みで働いていたそうです。この庭は馬を放牧し、馬渡又兵衛、馬渡なほ、馬渡惣次郎の時代は優秀な馬を生産していました。立派な賞状も蔵から出てきました。
蔵を保存するか、解体するか、毎日のように悩み考えましたが、解体を選びました。E社を通じてY建設に依頼し、大きなショベルカーで解体しました。解体費用は保存・移築費用の4分の1程度で済みました。
区画整理事務所とは、農作業小屋の移転、母屋の移転をどうするかの話し合いを重ねました。さらに、裏のお稲荷様(神社)とケヤキの木などの山林も移転(伐採)をすることになりました。どれを最初に手をつけたらよいのか分からない、想像がつかないです。農作業小屋は大きな小屋ですが、地盤が悪いせいで傾いてゆがんでいます。移転は難しく解体するしかないと考えますが、新しい小屋はどの場所に、どんな小屋を、どの業者に依頼して作ってもらうとよいのかが分かりません。母屋は曳家する方法がありますが、どの場所に曳家すべきか、曳家すれば家がゆがんだり壁にひびが入ったりしないのか、どの業者に頼むといいのか、お金はいくらかかるのか、さっぱり分かりません。裏のお稲荷様も母屋や農作業小屋の移転に伴ってどの場所に移転したらよいのか分かりません。令和4年度はこれらについて、いろんな案を考えた年でした。しかし、堂々巡りしてよい案が出ませんでした。
【令和5年度(2023年度)】
E社とは家の新築計画からの付き合いですが、蔵を解体し、次の山林伐採や母屋の曳家の相談もしました。山林伐採、母屋の曳家、リフォームをするとどれくらいの金額になるか話し合いをしました。
母屋は明治時代の建物で、時代の変遷でリフォームをしてきました。板張りの壁で、土間があり、いろりやかまどもあった昔風の生活が昭和の終わりになっても続いていました。三陸はるか沖地震を機に何度かリフォームして今の形になっています。断熱材は使われておらず、すきま風の多い家なので冬は底冷えし、灯油代も1週間で2万円前後かかります。よく見れば柱もずれているところもあるし、柱や梁が立派で何重にも組み合わさっている造りとは言え、本当に耐震性において大丈夫かなという心配もあります。
今では古民家が貴重で文化的な価値が高いと思いますが、マイナス面もかなりあります。平成6年(1994年)12月の三陸はるか沖地震では、神棚も崩れ落ち、食器棚も倒れました。蒸し暑くなる頃には羽アリが大量発生し、冬になるとネズミが侵入します。日頃からムカデやクモも多く歩きます。新しい住宅地に生まれ変わる三条学区において、住みよい間取り、耐震性や断熱性に優れた家に住みたいという希望もあります。区画整理を機に、曳家するだけではなくリフォームの必要がありますが、令和の時代になって物価はどんどん上昇し、ウッドショックという木材不足、様々な業界で人材不足や新型コロナウイルス感染症による混乱により、需要も供給も少なくなるという悪いタイミングです。だからと言って先延ばしにしてもどんどん情勢は悪くなっていくばかりです。
母屋を曳家するか、思い切って解体して新築するか、それとも新館と別館のように、母屋を残しつつ新築もするか、など様々な案を区画整理事務所とも相談しました。新築するなら、母屋の柱や梁、神棚を移設できるかも検討しました。問題は金銭面です。市の方からどれくらいの移転補償費が出るのかわかりません。この地域に住む人、親戚などはこの家を失くしてほしくない、残してほしいと言います。矢沢町内のシンボル的存在です。建築業者の人も、この母屋の太くて丈夫な梁や神棚を見ると感激するので、自分たちもこの文化財的な建物を保存したいとは思います。
裏庭の山林伐採を令和5年度のうちに行うことになりました。どの業者に、いつ伐採してもらうのかが難しいところです。Y建設の見積よりN建設の見積が80万円くらい安く、しかも、畑のブルーベリーやラズベリーの移植、裏庭の柿の木の保存も手がけてくれるそうです。
裏の山林は、母屋の北西、西、南西を取り囲むようにして樹木が茂り、ここに馬渡家があるとは知らない人も多いくらいです。遠くから見てもケヤキや杉の木が高くそびえ、特にケヤキの木は樹齢何百年もあるだろうし、高さが建物に例えると4階か5階くらいはあるので、地域の人も「鎮守の森」として見ていました。自然を感じる風景なのです。バス通り沿いには杉の木も並び、イチョウの木も2本そびえたっています。昔は杉の木はなく、馬を放牧していたそうです。おそらく惣次郎じいさんが植えたものだと聞きます。柿の木はエイばあさんが植えたと伝え聞きます。松倉さんの話では、作陽神社のある方から自分の家にアコーディオンを演奏しながら馬渡昭治さんが遊びに来たそうです。戦前や戦後すぐの様子を知っている皆さんからすれば、この森がなくなることがとてもさびしいことです。
しかし、台風、真冬の北風、春先の暴風が吹けば、木は大きく揺れてうなり声をあげ、重くて大きな枝が落ちてきます。杉の木は幹に空洞が目立つようになって倒れると歩行者にケガをさせてしまう心配があります。昨年度はスズメバチの巣が8つもできて、庭をたくさんのスズメバチが飛び交っていて危険でした。バス停のあたりで草取りをしてくださった近所の親戚の方も刺されてしまいました。そんなこともあったので、山林を伐採することで、安心感もありました。N建設に依頼して山林伐採、整地工事を行い、S社に神社の拝殿解体と鳥居の解体、仮置き場への移設を依頼しました。複数の業者と話し合いをして、1つに決める時には他の会社に断ることを伝えるのも申し訳ない気持ちになり、神経が磨り減ります。
こうして、令和6年3月、裏の山林の伐採が開始されました。ケヤキの年輪を数えると150ありました。明治時代のはじめあたりから生きてきたケヤキが6本、杉の木、ひばの木、イチョウの木、桜の木、モミジなどが切り倒されていきました。
3月下旬には、櫛引八幡宮の権禰宜様をお招きして作陽神社の遷座祭を執り行いました。この稲荷様(作陽神社)では、6月に7年ぶりとなる例祭を行いましたが、その場にお集まりいただいた方々をお招きして遷座祭を行いました。この作陽神社は昭和8年の創建であり、90年の歴史があります。当主馬渡又兵衛(ひさべえ)が亡くなった年でもあります。この神社を創建した直後に亡くなったのではないかと想像します。稲荷社は農業の神様であり、商売繁盛の神様でもあります。10年前に鳥居が古くなって朽ち果ててきたので、近所のみんなで敷地内の杉の木を切り倒し、鳥居を作ったことが記憶に新しいのですが、もうすでにその鳥居も朽ち果ててきました。木をしっかり乾燥させないと、水分が含まれていて朽ちるのが早いのです。遷座祭を無事に終え、S社によって拝殿が壊され、祭殿の部分が吊り上げられて農作業小屋の隣に運ばれ、仮置きされました。そして、神社の北側の一角で区画整理の造成工事が始まりました。
家のことは本当に悩みます。家は永遠にあるものではありません。京都や奈良の神社仏閣とは異なり、国や県の文化財になっているわけでもないので保存していくための費用はありません。この家を壊したくない気持ちが強いのですが、こらからの100年も安心して暮らせる家かどうかわかりません。新しい家、新しい部屋を作っていく必要を感じています。
年が明けて令和6年2月は大雪になりました。仕事に行くにも、買い物に行くにも敷地から出られない状態です。地域の子どもたちもこれでは通学できません。毎朝3時30分に~4時00分に起きて雪片付けをしました。
【令和6年度(2024年度)】
毎週のように区画整理事務所や建築業者と話し合いをしました。枝葉の少ない3~4月に裏庭の山林は伐採されましたが、伐採した木はものすごい本数で、すべてが運搬され終わって整地されたのは8月のことです。石などもたくさん掘り起こされました。この地にも昔何かの建物が立っていたのかもしれません。また、日本風の庭園もあったようです。石の一つ一つにも歴史があります。作陽神社の基礎に使われていた石は、いつか参道として使えると思い、とっておくことにしました。
令和6年度は、母屋をどうするのか決めないといけない年です。夏には判断したいと考えていました。区画整理事務所との話し合いで、来年度、令和7年度には家を移転させることになったのです。家の前は夏になると道路工事が始まり、ついに造成工事も始まりました。E社のほか、Ⅰ社、Ⅿ社、N社など多くのハウスメーカーを見学し、相談しました。新居のプランを作成してもらい、毎週どこかの業者との話し合いをする忙しい1年がつづきました。新築する、母屋も別棟として保存する、曳家リフォームするなど複数のプランを考えました。それにともなって、小屋はどの位置に作るか、ブルーベリーの移植はどこに移植するか、神社はどの位置に移転するか、考える案件がとても多いのです。自分が間取りプランを考えて各ハウスメーカーにメールで送り、それをベースに各ハウスメーカーが詳細な図面を作成します。どのハウスメーカーも新しい案を加筆し、修正してくれますが、どれも今一つしっくりこないのです。
自分は家相・風水を考えてプランを立てています。北東の鬼門にキッチンや勝手口を設置するのはダメ、玄関から入るとすぐ目の前に階段があるのはダメ、家の中心に階段があるのはダメ、廊下で分断される家はダメ、廊下の突き当りにトイレがあるのはダメ、西にトイレや浴室があるのは財運的にダメ、南西の裏鬼門に神棚や仏壇があるのはダメとこだわりがあります。長男は東、長女は東南、次女は南、三女は西の方位が吉であり、1階に欠けがあるのもダメ、新館と別館を渡り廊下でつなぐのもダメです。しかし、この矢沢という地域は、鬼門である北東の方位にJR八戸駅があり、馬淵川のある南の方からは冷たい風だったり土ぼこりのひどい暴風が吹いたりする地域で、どうも間取りプランが難しいのです。実家から将来的に仏壇を持ってくるので別の部屋を準備し、ピアノ部屋も必要、洗面は2つ、トイレも2つ必要、収納スペースも必要と考えなければならない条件がたくさんあります。こうして、夏になっても令和7年度に向けた家のプランについては決定するに至りませんでした。
家のプランの間取りを考えるよりも期限が迫っていたのは、神社の件と農作業小屋の件でした。神社は仮置き場にあり、いつ、どこに移動させるか、区画整理事務所と話を進めました。家から見て北の方角に神社があるのがよいと考えました。7月にかさあげ造成を開始して、11月には神社の移転ができるという計画の説明でした。神社の補修工事と鳥居の新築は階上町のⅮ社にお願いし、現在仮置きしている祭殿やキツネ像などを動かすのはⅯ工務店に依頼することにしました。また、下根市の天間宮の老朽化も著しく、この際、小さな祠に変えることにしました。インターネットで注文して、小さな祠を取り寄せ、設置はⅯ工務店に依頼しました。祠と台座の購入や工事費用の支払いをしました。櫛引八幡宮の権禰宜様にお願いし、地鎮祭や竣工の儀式を執り行いました。
農作業小屋はどのようなものを新築するか、どの位置にするか大きな課題でした。春の強風を考えると、風除けとして南の角地に建てるのがいいのではないか、強風に背を向けて北東側が出入口になるといいのではないかと判断しました。令和7年1月末に農作業小屋を解体することを考え、逆算すると、家の前の造成した南の角地に小屋を12月に建て、冬休みに荷物を運び出しして、1月に解体という流れがよいです。S工務店からは、今の農作業小屋をそのまま曳家する案を提案されました。木材が立派でもったいないからです。しかし、形がすでにゆがんでいるこの小屋を使うのは安全上よくないと思いますし、値段が意外と高額なのです。もっと安い方法はないものかといろいろ相談しているうちに、Ⅿ社からはイナバの物置でガレージ(車を保管するためのもの)が安くて良いのではと提案されました。小屋の新築と古い小屋の解体を合わせた金額を考えて選びました。
土地の造成の仕方はどうするかも難しい課題でした。区画整理事務所には斜めの土地でよいと伝えましたが、実際に造成工事が進むと、浅水川の側が高くてだんだんこちらが低くなってくる土地の形状を見て、なんだかしっくりしない感じがあったのです。平らな地形にすると、バス通りでは80cmくらいの段差が生じて、のり面をコンクリートで覆う工事が必要になる、それは個人負担になる、200~300万円くらいはするだろうというのです。市の事業によって土地を造成するので、個人負担とはなんだか納得がいきませんが…。様々な案を考え、2段の平らな形状にすることに変更しました。そうアドバイスをしてくれたのはⅯ社の担当者でした。やはり土地の造成は平らな方がいい、と区画整理事務所にもかけあってくれました。新しい小屋の新築もⅯ社に依頼することにしました。
そして、新しい住居に関しては、各建築会社や区画整理事務所と何度も話し合いをしてきました。基本的に(1)曳家して母屋をリフォームして住む案 (2)母屋の柱・梁を生かした新築をする案 (3)新築をして母屋は解体する案 (4)新築をして母屋の一部を離れとして改築する案、という4つの案があります。各ハウスメーカーにはたくさんのプランの作成を依頼してきました。
はじめは10社ほどの候補がありましたが、母屋の柱・梁を生かした新築が可能なハウスメーカーを検討しました。まず、高い天井の家をつくる会社を探し、数社にしぼっていきました。
しかし、話し合いを進めていく過程で、その案をあきらめることになります。(1)曳家プランや(2)柱・梁を生かした新築プランでは、自分たちが一度アパートか中古住宅で1年半ほど仮住まいをしないといけないのです。たくさんの家財道具があり、この三条学区で仮住まいできる場所はなく、あったとしても2度引っ越しをする苦労があります。そして、ピアノ練習もできなくなってしまいます。
令和6年11月、バス通りの道路工事が始まりました。夜間は信号付の片道交互交通になります。せまいので事故が心配です。特にバスはうまくカーブですれちがうのが大変なようで、朝と晩にはちょっとした渋滞になります。登下校の子どもたちの安全も心配です。
令和6年12月、ある程度の方向が決まりました。やはり、アパートまたは中古物件に引っ越しをして1年または1年半を過ごすのは無理があるので、曳家の案も仮住まいの案もできないと考えました。敷地内に家を一軒新築し、そこに引っ越しを済ませてから母屋を減築するのがよいという決断です。そうは言っても物価高騰がすさまじい時代、新築費用も高く、どのような家を新築するべきか、なかなか家族の中でも意見が一致しません。
令和6年12月、ガレージ小屋の基礎工事が始まりました。Ⅿ社に依頼しました。昨年とはちがって雪の多い12月です。本当はコンクリート基礎が固まることを考えると冬にこのような工事をするべきではないのですが、区画整理事務所との契約の期限に間に合うように、雨の日も雪の日も工事に取り掛かってくれました。
令和7年1月上旬、ガレージが完成しました。1/11,12,18の3日間で農作業小屋から荷物を運び出しました。親戚も1名手伝ってくれました。重いものを運び出すので腕も腰も痛くなり、大変な重労働です。ガレージの後側からトラクターと軽トラックを回り込んで入れようと考えていましたが、急に道路の側溝工事が始まったため、仮スロープを作ってもらうなど区画整理事務所に連絡しました。々、区画整理事業が進むようになり、めまぐるしく風景が変化していきます。農作業小屋の解体はS社に依頼しました。滅失登記は自分で法務局に出かけて手続きをしました。新しいガレージ小屋の登記は図面を作図するのが大変そうです。
令和7年3月、ついに新築の業者を選ぶ最終期限になりました。これまでどのハウスメーカーの担当者も親身になって相談にのってくださり、本当にありがたいと思うし、ご苦労をかけてしまって申し訳ないという思いもあります。どの業者が建てる住宅も、断熱性、気密性、耐震性などにおいてすばらしい性能で、科学技術の進歩を感じます。Ⅿ社に決めたのはタイミング的なものがあります。ガレージ小屋の建築をⅯ社に依頼したこと、ガレージ小屋の登記をこれからⅯ社に依頼しなくてはならないこと、敷地の造成工事の仕方についてⅯ社が区画整理事務所にかけあってくれたことなどが理由としてあります。本丸である新築の家のことよりも、外堀の建築計画でⅯ社との関係が強まっていったのです。また、日頃は忙しいので夜や早朝にメールで連絡を入れるのですが、そのメールの返事がとても早いこと、ねばり強くたくさんのプランを考えてくれたこともⅯ社を選ぶ決め手になりました。
同時に敷地の造成工事はかなり進みましたが、雪解け水や雨水で法面は崩れるし、ぬかるんでしまうし、問題だらけです。これでは新居の建築予定地や神社の移設地も崩れるのではないかと心配です。
敷地全体のかさあげ造成工事
農作業小屋の南側は新しい道路の建設予定地になる
母屋の南東側の造成と道路沿いの側溝工事
母屋の北西側の造成
農作業小屋の北西側の造成
神社の移転工事
作陽神社のと天間宮の移設
農作業小屋の解体
農作業小屋の解体
【令和7年度(2025年度)】
敷地内に家を建てなければならない期限は秋です。Ⅿ社と正式に契約しました3月~5月はほぼ毎週打合せを行いました。家の間取り、デザイン、場所や土地の形状に関すること、資金のことなどです。
令和7年4月、Ⅾ社に依頼して、作陽神社の屋根や板材の補修、鳥居の造営を行いました。また、N建設に依頼して、神社の境内にサツキとマサキの植樹をしました。
令和7年4月、ガレージ小屋の南西側に畑の黒土を運び、ブロックをホームセンターで購入して土留めにし、芝桜の苗を植えました。市が入れる山砂は大雨が法面が崩れて土砂が流出していきます。コンクリート等で土留めをすると数百万円かかります。それよりなら、花でも植えた方が安くすむし、街の美化になっていいと考えたのです。
令和7年6月、新居の着工を行いました。今年も猛暑が続く中、基礎工事をはじめ、大工さん、電気工事関係、外壁業者、屋根材業者の方ががんばって作業してくださいました。
令和7年8月、風が吹くと造成した場所の山砂が網戸をすりぬけて母屋に入ってきました。やはり土の状態ではだめです。雨が降ればぬかるんだり崩れたりします。芝の種をまくか、クローバーの種をまいて緑で覆うのがよさそうです。
令和7年10月、畑の黒土をバケツに入れて敷地に運びました。畑は来年度の造成工事で山砂を入れられてしまうのです。毎朝バケツ9個×3往復、夕方バケツ9個×3往復、休日にはバケツ9個×31往復がんばりました。そして、芝の種をまきました。
令和7年10月、各業者に問い合わせをして外構工事のプラン作成、見積をとって打合せを行いました。新居の引き渡しが11月の末、引っ越しは12月になるので、外構工事は春になりそうですが、冬のうちにやれるものはないか相談しました。
令和7年11月、引っ越し業者と打合せをしました。電気、水道、ガス、テレビやインターネット業者とも打合せをしました。
Ⅾ社に依頼して作陽神社は朱塗りにする
Ⅿ工務店に設置してもらった天間宮
作陽神社と天間宮の周りにはサツキを植樹
農作業小屋の跡地に長さ4.5Mのパイプを30本以上打ち込む
基礎工事は布基礎(Ⅿ社)
基礎工事は布基礎(Ⅿ社)